(135)「祖禰」と「弟彌」の読み方

135梁武帝

梁の武帝(HP「壹讀」から)

 『宋書』が記載する「武の上表」文について、元嘉二年(425)に司馬曹達が文帝に奉じた倭讃の上表文の一部が、武王の上表文に混入ないし合体しているのではないか、とする指摘があります。沈約が編纂した『宋書』は9世紀までにかなりの部分が散逸したため、10世紀中ごろに再度整理・補修された節があります。

 北宋の大中祥符六年(1013)に成立した『冊府元亀』という古文書集成に、「倭讃の上表文」が載っています。

 封國偏遠 作藩于外 自昔祖父 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國 王道融泰 廓土遐畿 累葉朝宗 不愆于歲 臣雖下愚 忝胤先緒 驅率所統 歸崇天極 詔除都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國書軍事安東大将軍倭王

 というもので、武王の上表文の前半部に相当します。

 「偏遠」は『後漢書』東夷伝の補注、「躬擐甲冑 跋渉山川」は『左伝』から、「不遑寧處」は『詩経』からの引用(というより、各書を原典とする常套句的な表現)というようなわけですので、果たして当時の倭國がそこまで華夏の古文書に通じていただろうか、後世の補正・修飾ではないか、という指摘もあります。

ここでは倭國側で作成したものとしておきますが、とはいえ武王の上表文「臣亡孝済」は、当の倭王がそのような呼称を認識していたか、という問題に直結します。讃・珍・済・興・武という王名は、宋の吏僚によって付けられた華夏風の諡号だからです。「臣亡孝済」は宋の吏僚が「済」の文字を補足した可能性が認められます。

 もう一つ、「倭の五王」に入っていない「禰」と「彌」という2人の王がいたのではないか、という指摘があります。示偏と弓偏の違いだけなので紛らわしいのですが、「禰」の音は「デイ/ネ」、意味は「廟に祀った父/位牌」、「彌」の音は「ミ/ビ」、意味は「わたる/ひさしい/とおい/いよいよ/あまねし」です。

 「禰」説の論拠は、武王の表にある「祖禰」です。「先祖」と解されていますが、それを「祖の禰」と読み下すのです。「経伝」(経書とその解釈書)に「父死して孝と称し廟に入りて禰と云う」とあって、武の上表文は「臣亡孝済」と「経伝」に準拠した表記をしています。上表文を書いたのは華夏の文書作法に精通していた人物なので、「祖禰」が「祖の禰」であるとは思われません。

 「彌」の論拠は『梁書』です。宋の順帝が479年、蕭道成(高帝)に禅譲して「斉」(南斉)が成立し、その斉も内輪もめの末、502年に肅衍(梁の武帝)が建てた「梁」に代わります。その梁の出来事をまとめたのが『梁書』で、唐初の貞観三年(629)に成立しました。

 『梁書』諸夷傳東夷条倭に、「晉安帝時有倭王賛 賛死立弟彌」とあります。「賛」は『宋書』の「讃」と考えて差し支えないでしょう。すると『宋書』で「珍」とあるところが「彌」となっていて、「彌死立子濟」となっている点が違います。これについては、「珍」を「珎」と書くことがあるので、「珎→彌」の誤記が生じたのだろうと推測されています。 

 「禰」については「祖の禰」説が根強いようなのですが、本稿では「禰」も「彌」も存在していなかった説に与しておきます。これを踏まえて「奄父兄喪」を見ていきましょう。


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