(69)『書紀』が「魏志曰」を入れた理由


066清涼寺

神功皇后像(京都・清涼寺蔵)

鳩首談合して年代を考えた

『日本書紀』が記す「東征」譚を考察する前に、今回扱うのは『書紀』の編者たちは「邪馬壹國」を知っていたのか、についてです。それは同時に、なぜオキナガタラシ姫(神功)紀三十九年条、四十年条、四十三年条に「魏志曰」の注釈を入れたのか、という問題でもあります。

留意しなければならないのは、ここから分かるのは、『書紀』の編者たちはアマテラス大神を卑彌呼女王と比定していない、ということです。 またオキナガタラシ姫についても、卑彌呼女王とはしていません。

単純に考えれば、『書紀』の編者たちが鳩首談合して年代を比定したのです。オキナガタラシ姫の伝承があって、さてこれはいつごろの話なんだろうと考えていたら、「倭人伝」の記録が見つかった。ということでしょうか。 

ただ残念なことに、『書紀』編者たちは実際より120年間違っていました。卑彌呼女王が帯方郡に最初の使者を送った景初二年は西暦237年です。ところが『書紀』は357年としています。なぜそのようなズレが生じたのかがポイントです。 

物語を作る立場で見ると、それならオキナガタラシ姫の伝承そのものを「倭人伝」に合わせて調整すればよかったと思います。しかしオキナガタラシ姫は夫であるナカツヒコ大王の熊襲征伐計画に反対し、新羅王国に攻めています。 

『書紀』編者はオキナガタラシ姫が卑彌呼女王かもしれないことを匂わせていますが、断定はしていません。というより、オキナガタラシ姫が卑彌呼女王ではないことを知っていながら、読者が勘違いすることを期待しているのです。卑彌呼女王のあとを継いだ「壹與」女王に相当する人物や、狗奴國との戦いの記述がない」のがその証拠です。 

『書紀』は華夏向けの履歴書

では、なぜオキナガタラシ姫紀に「魏志曰」を挿入したのか、です。 

この連載の第6回「日本」はヤマト王権の名乗り」の冒頭で、『日本書紀』も華夏向けの歴史書だった可能性を捨て切れない、と書きました。いわば中国の王朝に提出した履歴書です。

華夏で「倭」といえば「女王の国」というイメージがあったことも、第13回「日本」の異称から探ると……で触れました。遣隋使か遣唐使の船で大陸に渡った学生が帰国して、あるいは白村江の戦いで捕虜になった倭兵が解放されて、ヤマト王権の官吏に「華夏の吏僚から、女王國はどうなったのか、邪馬壹國を知っているか、と厳しく尋問された」とでも報告したのでしょう。

それで第7次遣唐使節団(実際は敗戦処理交渉団)あるいは第8次遣唐使(「倭」から「日本」改称する交渉使節団)に随行した学生が『三国志』を書写したのかもしれません。 

もたらされた書写を読んで、『書紀』の編者たちは大慌てになったことでしょう。そのような事実を全く知らなかったのですから、どうにかして辻褄を合わせなければならなくなりました。景初二年(三年)、正始元年、正始八年がいつのことなのか、当時は干支で比定するしかありません。 

景初二年は丁巳、正始元年は庚申、正始八年は丁卯です。そこで『書紀』の編者たちはタカラ女王(斉明)七年(661)からさかのぼって、実際から120年あと、359年の丁巳、360年の庚申、367年の丁卯に「魏志曰」を挿入することになったのではないか、と思います。そうしないと、自分たちが漢・魏の時代から華夏帝国の認証を得た王統であることを証明できないからです。

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