(174)「日本中央」の石碑が語るもの

写真は2018年の6月末、青森を旅したときに撮影したものです。下北半島からフェリーで陸奥湾を横断、津軽半島を南下して山内丸山遺跡、というコースでした。わざわざ東北町の遺跡公園に立ち寄る観光客は珍しかったかも。

174日本中央の碑

日本中央の碑(青森県東北町)

 『梁書』諸夷伝に登場する「文身國」は、倭國の東北七千余里ということから、倭国を筑紫と見れば出雲地方から東、奈良盆地を起点とすれば糸魚川―浜松の中央地溝帯以東ということになります。

 また「大漢國」については、華夏の中華思想にあって許容される名称なのか、という素朴な疑問を禁じ得ません。ぐっと後世、モンゴル帝国第15代皇帝(元11代順帝)トゴン・テムルの至正十七年(1357)、華夏大陸の江南を支配した陳友諒が「大漢」を樹立して皇帝を称しています。モンゴル族に対する漢民族のアイデンティティを示した国号です。

 ところが『梁書』がいう「大漢國」の主体は東夷諸族ですから、いま一つ腑に落ちません。「漢」の原義「天の川」が転じて大河の意とすると、例えば漢語を習得した倭人が信濃川や阿賀野川、木曽川、天竜川などをそのように呼んだものでしょうか。

 なぜ「文身國」「大漢國」にこだわるかというと、『書紀』オシロワケ(忍代別:景行)紀二十七年春二月条にある「武內宿禰自東國還之奏言 東夷之中有日高見國 其國人男女並椎結文身」(武内宿禰、東国から還りて奏言らく、東夷の中に日高見國あり、其の国人男女、椎結文身す、と)と、青森県東北町に保存されている「日本中央の碑」とかかわりがあるのではないか(かかわりがあるかもしれない)と考えているためです。

 「日高見國」は東夷の国――ヤマト王権から見てかなり離れた東方にあった――と『書紀』は言っています。そこで奈良盆地から東に直線で500km、音や意味が類似するのちの「常陸」のことではないかとされ、それが「日本」の由来となったともされています。

 もう一つは、日高見國は「日の出の地」のことで、特定の地域に固定されていなかった、という考え方です。倭王権の起居が筑紫にあったころは瀬戸内海の東のどん詰まり、つまり河内の日下(生駒山系の向こう側)だった。しかし5世紀初頭、起居が難波に移ると白根・秩父・箱根の東側(関東地方)の呼称となり、6世紀以後に関東地方がヤマト王権の支配するところとなると東北地方を日高見國と呼ぶようになった、というわけです。

 6世紀以後に東北地方を日髙見國と呼んだ傍証は岩手県を流れる北上川で、それは「ヒダカミ」が訛って地名として残ったのだ、という見方もあります。ちなみに北海道の日髙は、明治二年(1869)に定められた北海道11国の名残であって、蝦夷またはアイヌ族のオリジナルではありません。

 ここで関連が想起されるのが、昭和二十四年(1949)に発見された「日本中央の碑」です。伝承では弘仁二年(811)、文室綿麻呂が遠征して陸奥國都母村(青森県上北郡)に至ったことを記念して、矢筈(矢の柄尻)で「日本中央」と刻んだ碑を建てたとされています。

 現物を見ると文字の彫りが浅く、字形が稚拙なのは否めません。だからこそ伝承は事実とも、後世の偽造・捏造ともいえるので、碑の真偽は考古学の踏査研究に委ねるほかありません。

 ただ蝦夷の人々が自分たちの国を「日本」と呼んでいたこと、関東地方からアリューシャン列島までの中央と見れば地理的に矛盾は生じないことが重要です。文身國、大漢國、扶桑國はやはり倭人の国だったのでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?