(169)倭王権に生じた50年の空白
継体天皇像(足羽山:福井市)
5世紀の倭王権が目指したのは、まず倭人の習俗を華夏の風に改め、次にミニ中華世界を築くことでした。それは「蛮夷の族」から脱することを意味していました。明治政府が目指した脱亜親欧路線、第2次大戦後の日本が目指した脱亜親米路線と重なるものがあります。
当時の華夏とは建業(南京市)に都を置く南朝(東晋―宋―斉―梁―陳)でしたので、倭王権は南朝の歴代に朝貢し、倭王武のときついにミニ中華世界の構築を宣言したわけでした。宋・順帝(劉準)の昇明二年(478)、倭王武が「開府義同三司」を自称して奉じた表がそれです。
ところが宋が滅びた479年から隋の開皇十九年(599)までの120年間、つまり斉(南斉)、梁、陳の3王朝に倭王は公式な使者を送っていません。ただし南斉・高帝(蕭道成)の建元元年(47 9)、梁・武帝(蕭衍)の天監元年(502)の倭王武叙爵記事が遣使朝貢と見れば、倭王と華夏の交渉が切れたのは97年間に縮まります。
あれほど頻繁に、まるで子犬がじゃれつくように使者を送っていた倭王が、ピタッと沈黙したのはなぜでしょうか。おそらく倭王武のミニ中華構築宣言が、華夏の逆鱗に触れたのでしょう。
具体的には、上表文にある「東征毛人五十五國 西服眾夷六十六國 渡平海北九十五國 王道融泰 廓土遐畿」がそれに当たります。自らの東西南北に夷蛮の族を配置するのは、自らを天子に擬するのと同義です。しかもそこでいう「王道」は、自らを天子に擬した表現とも読み取れます。華夏にとってそれは許容できない主張でした。
そこで華夏宮廷吏僚は倭王の出入りを禁じたものの、華夏に帰化する意思を明確にしている以上、非公式な接触まで拒否することはなかったでしょう。斉と梁は王朝の名こそ違え、王統は同じ蕭氏です。その意向は引き継がれたのだと推測します。
一方、倭王権は栄山江中流域から筑紫に南遷したあと髪型や衣服を華夏風に改め、天帝・天子・天権の思想を導入して皇帝型の政治運用を目指しました。しかし倭王武の死後、混乱が生じます。『書紀』が遺伝子疾患(アルビノ)を持ったシラカ(白髪)王で難波王朝が断絶したことを記すのは、そのことを示しています。
倭王権の混乱が収束したのは、『書紀』がいう第26代オホド大王(継体)が即位して20年目の秋、山背國弟國(乙訓)から大和國磐余玉穂に起居を移したとき、ないし筑紫國造磐井を滅ぼしたときと考えていいでしょう。西暦に直すと、磐余玉穂に倭王権が再興したのは526年、磐井滅亡は528年に相当します。倭王権においても約50年の空白が生じていました。
播磨王家のヲケ王、オケ王は難波王朝最後の大王となったシラカ王から数えて7世、三國王家のオホド王にいたっては10世も離れています。『書紀』が伝える系図が正しかったとしても、ほとんど他人といっていい繋がりです。
そういう人物を大王に推戴したのは、大伴、物部、平群、葛城、和爾といった宮廷氏族あるいは吉備や尾張、毛野の地域王侯にとっては、無用の混乱を戦乱に発展させない知恵だったのでした。このとき、倭の王統は諸臣に共立される都合のいいバラストに転換したことになります。
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