(83)東征伝承は何に由来するか

083東征伝承

西都原古墳群(西都市観光協会)

「邪馬壹国」が九州にあったにせよ大和(奈良盆地)にあったにせよ、『書紀』は2度にわたる東征があったことを伝えています。1度目はホホデミ、2度目はオキナガタラシ姫とホムタワケです。

ホホデミは熊野から北上し、エウカシ、オトウカシ、ヤソタケル、エシキ、オトシキ、ナガスネヒコを下して初代の大王になりました。その戦いで3人の兄が亡くなっています。激しい戦いだったことを物語ります。

オキナガタラシ姫とホムタワケはタラシナカツヒコ(仲哀)が亡くなったあと、筑紫の宇彌を発し、瀬戸内海を渡って大和のオシクマ王を破って大和に入りました。幼いホムダワケ王に代わってオキナガタラシ姫が摂政を務めました。オキナガタラシ姫とホムタワケは架空の存在なので、実際はオホササギ(仁徳)に仮託される大王のときで、おそらく西暦4世紀前半と考えられます。

九州北半を発した母の息子が船で瀬戸内海を東上するのは、朝倉宮で没したタカラ女王(斉明)とカツラギ王の姿に重なります。ただしカツラギ王は特段の戦闘もなく大和に入っていますので、一律に比較することはできないかもしれません。

其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征」と『書紀』が伝える東征伝承については次のような解釈が可能です。

(1)ヤマト王権の基礎は九州島から2度の王統移動によって形成された。

(2)九州島からの王統の移動は4世紀前半の1回で、ホホデミの東征譚は王統の開祖を太古に設定するための『書紀』の創作である。

(3)ホホデミの東征もホムタワケの東征もなかった。カツラギ王の東征を正当化するための『書紀』の創作である。

(3)が「東征」に当たるかどうかは議論のあるところでしょう。

いずれにせよヤマト王権は、

①ホホデミ:九州島(筑紫)→奈良盆地

②ナカツヒコ:奈良盆地→筑紫

③オキナガタラシ/ホムタワケ:筑紫→奈良盆地

④タカラ女王:奈良盆地→筑紫

⑤カツラギ王:筑紫→奈良盆地

と、瀬戸内海の西と東を往復すること計5回で形成されたと言うことができます。

不思議なことに『書紀』は、「ヤマト王統は大和に発祥した」と主張していません。発祥地は日向だと言っています。

『新唐書』東夷伝日本条には、「至彦瀲凡三十二丗皆以尊爲號居筑紫城」(彦瀲に至り凡そ三十二世、皆「尊」を以って號と爲し筑紫城に居す)(彦瀲はホホデミの父)とあって、「筑紫」が筑紫平野なのか九州島なのかはともかく、本籍は九州島だと言っています。

朝鮮半島から先進の文物や、三韓の王族を受け入れた筑紫なら分かります。ホホデミあるいはホムタワケは半島から渡来した王家の人だったのでしょうか。

ここで、「しかしなぜ日向=現在の宮崎県なのか」という疑問が出てきます。西都原古墳群はありますが、これといった弥生中・後期の遺跡はありません。律令制で国名が定められたとき、筑紫(北部)・豊(東部)・肥(中部)・熊曽(南部)のうち、熊曽を分割するかたちで設置されたのはなぜなのでしょうか。

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