(195)6世紀前半最大の課題は半島情勢

195ヒロニワ王と金仇亥

欽明天皇の「磯城嶋金刺宮」跡伝承地

 ヤマト王統第29代大王ヒロニワ(天国排開広庭:欽明)のとき、倭・済連合が形を変えて復活したと推測する理由は、木刕満致の後裔・蘇我稲目、筑紫王族の安倍大麻呂(いずれも「かもしれない」ですが)が政権中枢に躍進しただけではありません。ヒロニワ王そのものに大きな疑惑があるのです。

 まずヒロニワがオホド大王とテシラカ女王の間に生まれた男児だったかというと、大いに疑問です。それは幼名がないことです。幼少時のエピソードもありません。

 当時の王侯貴族の子息は実父母から離れ、信頼に足りる家臣の家で養われるのが通常でした。そのために、幼少時に住み暮らした場所や養い親の氏族名が幼名や通称になるケースが少なくありません。ということは、彼はヤマト王統の人ではなかったのではないか、という想像を掻き立てます。

 これもすでに触れたことですが、ヒロニワ王は即位を勧める群臣に「自分はまだ未熟なので」と辞退し、ヤマダ女王(春日山田:第27代大王マガリの正妻)の即位を提案しました。するとヤマダ女王は「この国を治めることができるのはあなたしかいないではありませんか」とヒロニワ王に即位することを勧めた、というエピソードを載せています。

 これはおかしな話で、要するに前大王の正妻の推戴を得て即位したことを強調しているに過ぎません。『書紀』がわざわざそのようなエピソードを挿入したのは、7世紀末のヤマト王権王侯氏族に「そのような状況だった」のだと説明する必要があったのでしょう。

 ヒロニワ大王の32~40年に及ぶ治世で最大の課題は、百済・任那を巡る朝鮮半島情勢でした。532年に任那の金官加羅國が新羅に降伏し、541年には百済・聖明王(武寧王の子、在位523~554)とヒロニワ大王が任那復興の協議を開始しています。倭・済連合で新羅に対抗しようとしたのです。

 その背景には、倭・済連合の弱体化がありました。磐井王の死によって、筑紫倭國の統制が緩んだのでしょう。信玄というカリスマを失った武田家が、長篠で呆気なく凋落に向かったのとよく似ています。

 百済の聖明王は529年、高句麗の安臧王と戦って大敗し、それを見た新羅は任那への圧力を強めました。532年に任那の金官加羅國が新羅に降伏したのはその結果です。『三國史記』新羅本紀は「金官國主金仇亥輿妃三子、長曰奴宗、仲曰武徳、李曰武力、以國弊寳物來降」(金官國の主である金仇亥は妃と長子は奴宗、次男は武徳末子は武力と曰う三子をともに國の寳物を持って来たり降る)と記しています。

 このうち末の男児・武力は新羅王朝に仕えて角干(上級官吏)となり、その息子・舒明玄と新羅王族の萬明姫との間にもうけた男児(武力の孫)が、高句麗を滅ぼした新羅の英雄と称えられる金庾信です。

 両国のトップが会談して、「軍事的な連携を強化しましょう」と合意したにもかかわらず、倭軍の体制はいつまでも整いませんでした。それによって、百済は劣勢に立たされます。553年に漢城を新羅に奪われ、554年の旧暦7月に当の聖明王が高句麗の伏兵に襲われて頓死する事態が発生します。(次節に続く)

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