見出し画像

「花のように」第四章 花嵐

第四章 花嵐はなあらし

       一

「で、また歌舞伎町かよ」
 紘彬はむすっとした顔で歩いていた。
「仕方ないですよ、この前捕まえたヤツらはHeを扱ってなかったんですから」
 如月が苦笑しながら言った。

 捕まえた連中の供述によると、扱っていたのはエクスタシーだった。
 Heを希望している客にも、エクスタシーをHeだと偽って売っていたのだという。
 しかし、その連中の話によると、確かに歌舞伎町でHeを売ってる人間がいるらしい。
 誰が売ってるのかまでは知らなかったが、流通量の少なさから、どこかの部屋でちまちま作っているのではないかと言う事だった。

「あ、猫の貰い手、一匹だけですけど見つかりましたよ」
「そうか。助かったよ」
「元々自分が拾ってきた猫ですから。それなのに、お言葉に甘えて預かっていただいてしまって……」
「いいって。花耶ちゃんも喜んでるしさ」
「そういえば、紘一君の家に預けてあったんでしたね」

 いつも、如月が帰った後も残っているので、何となく紘彬は紘一の家に住んでるような気になっていたが、実際に住んでいる家は別にある。

「紘一君は彼女に渡せたんですか?」
「それがさぁ」

 紘彬は紘一に訊いたことを掻い摘んで話した。

「それは残念でしたね」

 そんな事を話しながら歩いていると、道ばたで吐いているスーツ姿の男がいた。戻したての臭いが二人の方へ漂ってくる。

「こういうところの飲み屋って衛生的にどうなんだろうな」
「まぁ、そんなに良くはないでしょうね」
「この前、学生時代のダチと渋谷に飲みに行ったらさ、目の隅を猫くらいの大きさのものが横切ったんだよ。猫かと思ったら、それが大きなネズミでさぁ、飲む気が失せたよ」
 紘彬がうんざりしたように言った。

「ああ、ドブネズミは大きいですからね。ネズミ、嫌いなんですか?」
「いや、嫌いじゃないけどネズミってペスト菌運ぶんだぜ。ペストになんか罹りたくないだろ。医学雑誌に数十年ぶりに日本国内でペスト患者発生とか言って載ったらどうするよ」
「数十年ぶりの発生だと普通の新聞にも載りそうですよね」
 如月が答える。

「まぁ、うちにもネズミはいるからよその事は言えないんだけどな」
「え! 桜井さんち、ネズミいるんですか!?」
「いるよ。天井裏どたどた走り回ってる」
「都会の家にもネズミっているんですね」

 目的の店は薄汚れた幅の狭いビルの二階にあった。
 細くて急な階段を上ると両側に鉄の扉があった。
 先頭にいた四谷警察署の柿崎刑事が左側の扉の前に立った。

 柿崎刑事が団藤を振り返った。
 団藤が頷くと、柿崎刑事は扉を荒々しく開けて飛び込んだ。
 それに続いて紘彬を含む警官達がなだれ込んだ。

「警察だ!」

 店内にいた連中が驚いて一斉に浮き足だった。客や従業員達が逃げようとするのを警官達が止めようとする。

 何事かと奥から出てきた男が警官の姿を見るカウンターの内側にかがんだ。
 と思うと刀身の反りが強い刀のようなものを取り出した。

 青竜刀だ!

 男はカウンターを乗り越え、青竜刀を振りかざして近くにいた警官に飛びかかってきた。
 警官は目を剥いて男を見上げていた。
 とっさに紘彬は警官の襟首を掴んで思い切り後ろに引いた。
 警官が後ろに倒れる。
 その鼻先を刃がかすめた。

「おい! 警防貸せ!」
 紘彬の言葉に倒れた警官が、慌てて持っていた警棒を差し出した。

 再度振り下ろされた青竜刀を、警棒で弾く。
 弾かれた青竜刀はそのまま横に斬り込んできた。
 紘彬が警棒で受け止める。
 青竜刀は弾いても弾いても蛇のようにくねりながら次々に斬りかかってくる。

 剣道とは全く違う動きに戸惑いながらも、流れるような体捌たいさばきで、あらゆる方向から切りかかってくる青竜刀を弾いていった。
 青竜刀は反りが強い。上手く警棒を当てないと、刃がそのまま滑ってきて手を斬られそうになる。

「桜井さん!」
 如月の声がした方に目を向けると、もう一人、青竜刀を振りかざした男がこちらへ向かってくるのが見えた。
 紘彬は一歩踏み込んで袈裟に斬りかかってきた青竜刀を強く弾いた。
 男がよろめく。
 その隙に一歩踏み込むと警棒で男の右胸を突いた。
 男が後ろに吹っ飛ぶ。
 左胸を強く叩かれると心臓がショックで止まってしまうことがあるため、右を狙ったのだ。
 青竜刀が男の手から離れた。

 そのまま警棒を横に払って、次の男の青竜刀を思い切り弾いた。
 更に上段から振りかぶってきた刀をたいを開いてよけた。
 男の身体が泳ぐ。

 その隙に警棒を手放すと、さっき床に放り出された青竜刀に飛びつき、振り下ろされた青竜刀を払った。
 紘彬は素早く体勢を立て直すと青竜刀を片手で青眼に構える。

 男と睨み合った紘彬は青竜刀を峰に返した。
 相手がこちらを殺そうとしているとは言え、紘彬の方は命を奪うわけにはいかないからだ。
 青竜刀を構えている男がバカにするような笑みを浮かべた。

 峰に返した紘彬を見て、青竜刀の使い方が分からないと思ったのだろう。
 男が胴を薙ぐように斬りかかってきた。
 紘彬が弾く。
 弾かれた軌道がそのまま上段からの斬撃になる。
 それを後ろに下がりつつ横に払うと、逆袈裟に斬り上げてきた。

 男は横から襲ってきたかと思うと、上段から振りかぶってくる。
 剣戟の音が店内に響いた。

 電灯の明かりを反射はねた銀光を曳きながら青竜刀が流れる。
 二人のやりとりは素早く、誰も手が出せなかった。
 警官の一人が拳銃を構えているが、紘彬と男が何度も体を入れ替えるので撃てずにいた。

 いつまでもこんなことをしていられない。
 また別の誰かが青竜刀を持ち出してきたら確実に斬られる。

 紘彬の他にこの連中と互角に戦えるものはいないだろう。
 こうなると警棒を手放してしまったのは失敗だったかもしれない。
 相手を斬ることが出来ないなら、殴ることが出来る警棒の方が有利だ。
 今、青竜刀を持っている利点は、他の襲撃者に青竜刀を持たれないということだけだ。もう在庫がなければだが。

 幾度目だろうか。
 数合打ち合い、男の青竜刀を弾いたとき、甲高い音がして紘彬の刀の刃が折れて虚空に飛んだ。
 紘彬はとっさに折れた刀を男に投げつけながら後ろに飛びさすった。
 男が飛んできた刀を自分の青竜刀で弾いた。
 折れた青竜刀が部屋の隅に飛んでいく。

「你们用不好東西(安物使ってるな)」
「你会说普通话吗?(中国語が話せるのか)」
 男が驚いたように言った。

 一瞬隙が出来た。
 如月は落ちていた警棒に飛びついた。

「会一点儿(少しな)」
 紘彬が答える。
「桜井さん!」
 如月が警棒を放った。

 紘彬はそれを受け取って構える。
 男が斬りかかってきた。
 それを次々と弾きながら反撃のチャンスをうかがう。

       二

 しかし、なかなか勝負はつかなかった。
 紘彬は剣道の有段者だし、高校の時と警察に入ってからの剣道全国選手権で優勝したことがある。
 その紘彬と互角なのだから、男は相当な遣い手だ。

 横から払うように来た青竜刀をはじきながら後ろへ飛んだ。
 着地と同時に前に飛んで警棒を袈裟に振り下ろした。
 男が警棒を弾き、上から切り落としてきた。
 紘彬は体を開いてよけると小手に打ち込む。
 男が素速く身を引いたため、警棒は手首をかすめただけだった。

 男が青竜刀を横に払った。
 紘彬は屈んでよけながら前に一歩踏み込んで足を払った。
 男がよろめく。
 紘彬はすかさず前に踏み込んで小手を見舞った。
 男が青竜刀を取り落とす。
 紘彬は喉元に警棒を突きつけた。

「完了(終わりだ)」
 一瞬、二人は睨み合った。

 男がいきなり足を蹴り上げた。
 紘彬がとっさに後ろに飛んで避ける。
 その隙に男が青竜刀に飛びついた。

 男が青竜刀を手に立ち上がろうとしたとき、
「不行(おやめ)!」
 鋭い声が飛んできた。

 男の動きが止まる。
 振り向くと民族衣装風の服を着た顔中しわくちゃの老婆が立っていた。
 不服そうな男に、老婆が早口でまくし立てた。

 男は渋々青竜刀を落とすと、大人しく警官に捕まった。

「桜井さん、あれは何て言ったんですか?」
「あれは広東語かなんかだろ。俺は北京語しか知らないから」
 そのやりとりを聞いていた男が、後ろ手に手錠をかけられながら、
「这是晋通話(これは標準語だ)」(標準語=北京語)
 と言った。
 日本語が分かるらしい。

 だったら最初から日本語で話せよ。

 紘彬は男を睨んだ。

「謝謝你(有難うございました)」
 紘彬は女性に頭を下げた。
 女性はむっつりとした顔で、
「不客气(どういたしまして)」
 と答えた。

 紘彬と如月は、警官と逮捕された者達の後について歩いていた。

「今度は四谷署で取り調べか」

 そうしょっちゅう血刀を持った男に暴れ回れても困る。
 Heを広めてるヤツを早く捕まえたい、というのが警察内での一致した見解だ。

「俺達なんのために来たんだって感じだよな」
「そりゃ、中国人が青竜刀を持って襲いかかってきたときのためですよ」
「来なきゃ良かった」
 紘彬は本気で悔いているような表情で言った。

「今度も違ったらまた歌舞伎町に来るんだろ。そいつらがまた青竜刀持ち出してきたら誰が止めるんだ?」
「勿論、桜井さんですよ」
 如月が真面目な顔で答えた。

「冗談よせよ。青竜刀で斬り殺されたなんて言ったらいい笑いものだろ。お前だったらどう思うよ」
「桜井さんが死んだら自分はまず泣きますよ」
「お前、ホントにいいヤツだな」
 紘彬は如月の肩に手を置いた。

「刑事にも警棒持たせてくれないかな。そうすれば拳銃以外の敵なら怖い物なしなんだけどな」
「桜井さんくらいのつかい手ならそうでしょうけど、普通の刑事はそうはいかないですよ」
「そうか?」
「今は何にハマってるんですか?」
 如月は話を変えようとして訊ねた。

「『Dr.HOUSE』と『BONES』かな。後は『キャッスル』とか。今度来たとき見るか?」
「はい」

 紘彬はゲームも好きだが、海外ドラマも好きだった。
 だが紘彬は忙しい。
 仕事をしていないときは、柔道や剣道の稽古もしているし、紘一が起きている時間に帰ったときは勉強も見てやっている。
 そのため、紘一の部屋にあるテレビはW画面になるもので、片側の画面でドラマを見ながらもう片方でゲームをする、ということはよくあった。
 ドラマだけとか、ゲームだけ、なんて時間は紘彬にはないのだ。

「警官になんかなるんじゃなかった」

 これは紘彬の口癖だった。本気で言っているように聞こえるが、本当に本心なのかは如月にも分かりかねた。

「あのときクビにしておいてくれれば……」
 あのときというのは紘彬を警官に誘ったという女性刑事が犯罪者だと分かったときの事だろう。
「警官が嫌ならお医者さんになれば……」
 せっかく医大を出たのだ。親だってそれを望んでるだろう。

「医者ってハードだぜ。『ER』見れば分かるだろ」
「『ER』?」
「『ER:緊急救命室』。知らない? アメリカのTVドラマ」
「名前は知ってます。観たことはないですけど」
「あれ見てると、睡眠時間は一日二、三時間で休日もなしだぜ。それも何年間も」
「それは緊急救命室だからでは……」

 それ以前に、ハマってるのが『Dr.House』で引き合いに出すのが何故『ER』……。

「その上、治らなかった患者や患者の家族からは恨まれて、襲われたり訴えられたりするし。そんな割に合わない仕事はヤだね」

 拳銃でも出されない限り、襲われても桜井さんなら大抵の相手は撃退できると思うけど。

「それに、医者に限ったことじゃないけど、学問ってのは日進月歩だから勉強もおろそかに出来ないしな」
「なるほど」

 桜井さんって勉強家だしな。

「嫌々なった医者が勉強なんかすると思うか? そう言う医者にられたくないだろ」
「それはまぁ」
「この前さぁ、友達が入院したから見舞いに行ったんだよ。原因不明とか言うからどんな難病かと思って症状聞いたら、これが麻疹はしか。大人の麻疹患者診たことない医者だったから気付かなかったんだな」
「それはひどいですね」

 しかし、研究してる医者かどうかの見極めは患者には出来ないのだからあんまり変わらないような気もするが……。

 それに、紘彬は勉強しているではないか。遺伝学と公衆衛生学と法医学の専門雑誌を毎号取っていて、昼休みなどに熱心に読んでいる。

「桜井さんは頭がいいんですから弁護士とかどうですか? アメリカのドラマでもありますよね」
「弁護士も危険な目に遭うことがあるしなぁ。殺された弁護士とかいるだろ」
「なら検事は?」
「二年ごとに移動がある。東京以外の土地に行きたくない」

 紘彬が警察を選んだ理由の一つがこれなのだ。

「じゃあ、学校の先生は? 桜井さん、子供に優しいですし、向いてるんじゃないんですか? 学校の先生は地方公務員ですから他県への移動もないですよ」
「学校の先生も刺し殺された人いるしなぁ。卒業の時にお礼参りとかで殴られたりするらしいし」

 桜井さんに限って子供に後れを取ることはあり得ませんよ、とは言わないでおいた。

「小学校ならその心配はないかと」
「小学校はモンスターペアレンツとかいるだろ。ストレスで胃に穴が開きそうで気が進まないなぁ」

 本気で警官やめる気あるんだろうか?

「それよりさ、猫のブリーダーなんてどうかな。犬でもいいけど猫なら散歩の必要もないだろ。うち一戸建てだからペットも禁止されてないし」
「はぁ……」

 医大に入って成績優秀で卒業できるだけの頭と、全国選手権に出られるだけの剣道の腕があるほどの人のやりたい仕事が猫のブリーダー。
 別に猫のブリーダーが悪いわけではないが、なろうと思えばどんな職にだって就けるだろうに。
 それこそ宇宙飛行士にだって。

 医大の授業料を出した親は泣くんじゃないか?

「早稲田に土地があるんだ。道場跡の一部なんだけど、家を建てるには狭すぎるし、車を入れるのも不便な位置だから地上げ屋にも狙われなかったところでさ。ほったらかしにしてあるんだ。そこに小屋建てて猫を飼うのはどうかな」
「地価のバカ高い都心の一等地に、猫のためだけの家を建てるんですか!?」
「人間が住むとなったら耐震基準とか色々うるさいだろ」

 突っ込みたいのはそこじゃない。

 如月はそう思ったが黙っていた。

 突っ込みどころ満載の人だし……。

       三

「俺の部屋で飼ってもいいんだけど、親猫二匹に子猫が何匹かだとニャーニャーうるさそうだしな」
「警察のドラマって無いんですか?」

 警察のドラマにハマれば警官をやめたいなんて言い出さなくなるのではないだろうか。

「そうだなぁ……。『コールドケース』とか『クローザー』とか『メジャー・クライムス』……、『クリミナル・マインド』と『WITHOUT A TRACE』 ……は、FBIか。ま、警察には変わりないけどな。ちょっと古いところだと『ナッシュ・ブリッジス』とか」
「そういうドラマを見て警察に憧れたりしませんでした?」
「いやぁ、警察って大変だぜ」

 紘彬も警官なのに人ごとのように肩をすくめる。

「命がけの仕事で次々に殉職してくのに、失敗するとマスコミに叩かれるだろ」
「まぁ、そうですね」
「それまで一所懸命やってても一度の失敗ですべて水泡に帰すんだぜ。命がけの仕事なのに割に合わないだろ」
「…………」
 紘彬の言いたい事は分かる。

 それでは鑑識はどうなのだろうか。
 今更、監察医務院に行くのは気まずいにしても、鑑識ならいいのではないだろうか。
 監察医務院から警官へ転向したのは好きな女性が警官だったからであって、ハマってるドラマが変わったわけではない。

 今でも『CSI:科学捜査班』が好きなことに代わりはないのなら、鑑識になりたいのではないだろうか。

 紘彬は子供ではない。やりたい事は自分で見つけるだろう。
 鑑識になって欲しいと思うのは、自分が紘彬に警察を辞めて欲しくないからではないか。
 そんな事を考えているうちにパトカーのところまで来てしまった。紘彬とは別のパトカーに乗ったので、鑑識の事は言い出せなかった。

「やっぱり、この前の中国人は違ったか」
 四谷警察署から送られてきた供述書の写しを読みおえた紘彬が言った。
「供述書読みましたけど、間違えて捕まえちゃった感満載でしたね」
 如月は苦笑しながら言った。

 一応捕まえた中国人達も覚醒剤を扱っていたし、何より警察官を殺そうと青竜刀で襲いかかってきたので起訴した。

「桐子ちゃ……いえ、立花巡査が……」
「あ、桐子ちゃんって呼んでるんだ」
「いえ、その……」
 如月は赤くなって口ごもった。

「いいじゃないか。可愛いし、優しそうだし、いい子なんだろ?」
「はい。でも、とう……立花巡査は桜井さんが好きなんじゃないでしょうか。二人で会ってるときも桜井さんの話をよくしますし」
 立花とは、あれから何回か歌舞伎町に一緒に行っていた。

「憧れと恋愛は別だろ」
「それはそうですが……」
「俺に興味があるって言うのも、お兄さんに勝ったからだろ」
「それくらいのことで興味持つものでしょうか」
「紘一もそうなんだよ」
「え?」
 突然紘一の名前が出てきて首をかしげた。

「気がある子ってさ、その子のお兄さんが高校時代、俺の同級生だったんだけど、在学中ずっと学年トップでさ、いつも俺に勝ってたんだ」
「桜井さん、首席じゃなかったんですか?」
「いや、俺は万年二位。一位になったのはヤツが風邪で休んだときの不戦勝だけ」

 意外だった。
 紘彬は常に一番だと思っていたのだ。
 だが、そう言われてみれば誰も首席だったとは言ってない。

「それに、桐子ちゃんは俺に近付くためにお前を利用するような子じゃないだろ」
「そうですけど」
「で? 桐子ちゃんがどうしたって?」
 紘彬は話題を元に戻した。

「あ、そうでした。桐子ちゃ……じゃなくて、立花巡査が……」
「桐子ちゃんでいいって」
 紘彬が笑って言った。
「はい。桐子ちゃんが言うには日本人がやってる店で売ってるらしいんです」
「てことは、また歌舞伎町に行かなきゃならないのか」
「そうなりますね」
「やだなぁ」

 紘彬が頭を抱えたとき、
「おい、捜査会議始めるぞ」
 団が刑事部屋に入ってくるなり言った。

「……と言うわけで、田之倉がプレゼントに入れたバースディカードから採れた指紋の中に他の男のものがあった」

 バースディカードは市販のものだったので、当初は店頭でついたものだと思われていた。
 しかし、伊藤の言っていたことの裏をとると、田之倉はバッグを買った店のレシートを麻生に見せて本物だと主張したという目撃証言がとれた。
 伊藤の言っていたことは本当だったのだ。

 そこで質屋から麻生が持ち込んだバッグとショパーを借り受けて指紋を調べると、そのうちの一つから田之倉の指紋が出た。
 それに、伊藤から聞いた店に行って防犯カメラの映像を見せてもらうと、確かに田之倉と伊藤がバッグを買うところが写っていた。

 つまり、田之倉の持っていったものは本物だったと言うことになる。
 誰かが田之倉のバッグを偽物とすり替えたのだ。
 偽物のバッグは捨てられてしまっていて見つからなかったが、田之倉の渡した本物のショッパーから、田之倉と麻生以外の指紋が出た。
 偽物のバッグを持ってきたヤツが、バレた時のために入れ替えたのだ。

「そいつを捜し出せばいいんスね」
 佐久が言った。
「偽物と本物を入れ替えたからって犯人とは限らないだろ」
 団藤が答える。

「そっか。それもそっスね」
「だが、手がかりくらいにはなるだろう。桜井と如月は麻生のマンションの近所をもう一度聞き込んでくれ。飯田と上田はバッグの線から当たれ。新宿三丁目の質屋に押し入った強盗がそのときヴィトンのバッグも盗んだらしいから一応新宿署に確認してくれ。佐久と俺はタクシー強盗の方を担当する」

 タクシー強盗が起きたのは埼玉の所沢だから管轄外なのだが、タクシーの記録を見ると、犯人が乗ったのが西早稲田三丁目付近だったのだ。そこで所沢署に協力することになったのである。

「あ、課長、強盗に盗まれたバッグは違います」
 紘彬が盗まれたバッグの詳細が書かれた書類を見て言った。
「なんで分かるんだ」
「盗まれたのはショルダーバッグって書いてあります。麻生がプレゼントされたのはハンドバッグです」
「ハンドバッグに種類があるのか?」
「デザインやサイズやカラーが何種類もあるんですよ」
 課長は唸った。

 紘彬と如月は落合にある麻生真理のマンションへと向かった。

「桜井さん、もしかして花耶ちゃんもヴィトンとかのバッグ持ってるんですか?」
 如月が歩きながら訊ねた。
「まさか。花耶ちゃんはレスポートサック」
 紘彬が答える。

「それもブランド物ですか?」
「ブランド物だけど高いのでも二万円程度。普通のバッグなら一万円くらい。高校入学の時に俺があげたの今でも使ってるよ」
「なるほど」
「こういう閑静な住宅地での聞き込みっていいよな。危ないことなくてさ」
 紘彬が麻生のマンションへ向かいながら言った。

「そうでもないですよ。自分はこういうところで通り魔捕らえた事ありますから」
「やっぱ、警官なんてなるもんじゃないな」
 とか言ってる割にはやめようとする気配はない。
 紘彬の言うことはどこまでが本気なのか、如月にも分からなかった。

 麻生のマンションは白い三階建ての建物で、比較的新しかった。二人はこのマンションから聞き込みを始めた。

 翌日――。

 捜査会議をしていると、電話が鳴った。如月が受話器を取った。
 短いやりとりの後、如月が顔を上げた。

「桜井さん、そこの高校で生徒がナイフを持って暴れたそうです。確か、紘一くんって二年三組でしたよね」
「紘一に何かあったのか!?」
「それはまだよく分からな……」
 紘彬は最後まで聞かずに刑事部屋を飛び出した。

「桜井さん!」
 如月が慌てて追いかけた。
「おい! 桜井! 如月!」
 課長が呼ぶ声が聞こえたが紘彬も如月も振り向かなかった。

       四

 高校へ着くと紘彬は真っ直ぐ二年三組に向かった。
 この学校の卒業生だからどこにどの教室があるかは分かっている。
 紘彬は教室に飛び込んだ。

「紘一!」
 紘彬の声に椅子に座っていた紘一が振り返った。

 紘一の前で白衣を着た教師らしき大人がかがんでいた。
 紘彬の知らない教師だった。
 少年課の刑事も紘彬達より先に来ていた。
 紘一は服に血がついていた。

「兄ちゃん。どうしてここに」
「通報があったんだ」
「藤崎くん、君がナイフを振り回してる少年を止めたって言うのは本当かい?」
 ねずみ色のスーツを着た少年課の刑事が訊ねた。
「違います」
 紘一は訊かれるままに、そのときの状況を話した。

 職員室から戻ってきた紘一は、よその教室から出てきた花咲と廊下で出くわした。

「花咲、この教室で何してたの?」
 ここは紘一や花咲の教室ではない。
「友達に借りてた本を返しに来たの。藤崎君、この前は有難う」
「あの猫、どうしてる?」

 やった!

 今日は邪魔者がいない。
 紘一は心の中でガッツポーズを取った。

「うん、もうすっかり慣れて、今朝もソファでくつろいでた」
「そうなんだ。なんて名前にしたの?」
「こ……」
「え?」
「……猫」
 花咲は恥ずかしげに頬を赤らめた。
「ほら、藤崎くんち、夏目坂の近くでしょ」

 確かに箱根山を越えた向こう側が夏目坂だから近くといえない事はないけど……。
 歩いて十五分くらいだし。

 箱根山というのは23区内で一番高い山である。
 山と言っても高さ45メートル弱の丘――と言うか正確には築山である。
 この辺りは江戸時代尾張徳川家の屋敷で、殿様が庭に東海道五十三次のミニチュアを作った。
 そのとき箱根関を模して作ったのが箱根山である。
 この箱根山を中心とした一体は、緑が多いので戸山公園という公園になっている。紘一の家と夏目坂はこの戸山公園を挟んだ反対側である。

「だから夏目漱石にあやかって」
「あれは名無しで猫って名前じゃなかったと思うけど……」
 確か最後まで名前は付かなかったはずだ。
「うん、でも、さすがに名前なしって訳にはいかないし」

 まぁ、そうだろうな。
 花咲ってやっぱり変わってる。

「他の猫の貰い手、見つかった?」
「それは……」
 紘一が答えようとしたとき、大勢の生徒達が教室の方から逃げるように走ってきた。

「おい、どうしたんだよ」
 紘一はクラスメイトを捕まえて訊ねた。
「石川がナイフ持って暴れてるんだ」
「まさか! 花咲はここにいて」
「藤崎君は?」
「様子を見てくる」

 流れに逆らって教室の前に行くと人だかりがしていた。

 逃げないで見物している連中がいるようだ。
 命の危険を冒してまで野次馬をすると言うのもある意味天晴れと言えない事もない……かもしれない。

 人垣の頭越し覗いてみると石川が倒れていた。
 紘一は紘彬と同じで背が高い。だから野次馬の後ろからでも見えたのだ。
 石川の手元には血に染まったナイフが落ちていた。
 皆、遠巻きに見ているだけで石川に近寄ろうとはしなかった。

 紘一は生徒達をかき分けて石川のそばに行くと膝を突いて頭を抱えた。
 石川は意識がなかった。
 服には血がべっとりとついていたが、それが石川のものなのか、それとも返り血なのかは分からなかった。

 呻き声のようなものが聞こえて振り返ると、教室の中に何人か倒れていた。
 よく見えないが血を流してるようだった。
 そのとき、生徒達から報告を受けたらしい教師達がやってきた。
 紘一は石川を保健教諭にゆだねた。

 そして教師達に話を訊かれているところへ刑事達が来たのだ。

「じゃあ、石川くんがなんで倒れたのかは知らないのかい?」
「はい。知りません」

 そのとき、別の少年課の刑事が電話を終えて、紘一に話を聞いていた刑事に耳打ちをした。
 紘彬は紘一の前にかがんだ。

「ケガはしてないんだな」
「うん。これは石川を抱えてついた血だよ」
「藤崎くん、悪いんだけどもう一度話を聞かせてくれるかい?」
「はい」

 紘一はさっきの話を再び繰り返した。刑事が時折質問を挟んだ。

「じゃあ、ホントに君が石川くんと喧嘩したんじゃないんだね」
「紘一は嘘なんかつきません」
 紘彬がむっとしたように言った。
「紘一くんがこの生徒と喧嘩したなんて、目撃証言ってホントに宛てになりませんね」

 如月も憤慨したが、目撃証言の宛てにならなさは経験上よく分かっている。
 犯人は緑色の服を着ていた、と言う目撃証言があったのに捕まえてみたらオレンジ色の服だった、なんて言う事は日常茶飯事だ。

「俺、石川とは仲悪かったから」

 紘一が喧嘩して倒したと言っているのは、倒れている石川を抱えている姿を見た生徒が早合点したのだろう。

 話を聞きながら考え込んでいた如月が、
「紘一くん、その石川って子、痩せてた? ていうか、最近痩せた?」
 と、訊ねた。

「そういえば、抱え上げたとき、随分軽いなって……」
「とりあえず今はもういいよ。着替えてくるといい」
 刑事が言った。
「はい」
 紘一は立ち上がってから少し躊躇った後、刑事に向き直った。
「あの……病院に運ばれた人は……石川も含めて……」

 教室に倒れていた男子生徒と女子生徒の二人は既に死んでいた。
 かろうじて息があった石川ともう一人の男子生徒、それに女性教師が病院に搬送された。

 刑事は少し躊躇ってから、
「石川くんは亡くなったそうだ」
 と言った。

 紘一が石川を倒したという話を聞いて、逃げていた生徒達が戻ってきた。
 少年課の刑事が生徒達に話を聞いたところ、石川はいきなりキレて持っていたナイフを振り回し、生徒達に無差別に斬りかかっていったというのだ。
 何が原因なのか知っている生徒はいなかった。切られてケガをした生徒は保健室へ行っていた。

「紘一くん、ショックでしょうね」
 署に戻る道すがら、如月が顔を曇らせて言った。
「そうだな」
 犠牲になったのは全員クラスメイトだ。

「悪いな、如月」
「何がですか?」
「お前まで飛び出して来て、きっと課長に叱られるぞ」
「自分も紘一くんのことは心配でしたから」
 如月が答える。

「ありがとな。そういえば、さっき、紘一に、石川って子が痩せてたか訊いてたな」
「急にキレたって訊いて、もしかして例のHeをやったことがあるって言ってた子かなって思って」

 確かに、紘一は同級生にHeをやってる生徒がいると言っていた。
 Heをやっていた生徒と、がりがりに痩せていきなりキレたあげく、突然倒れた生徒が別だったとは考えにくい。

「さすがだな。そこまで思いつかなかった。てことは自分で倒れたってことだよな」
「そうなりますね」

 紘彬はスマホを出すと紘一にメッセージを送った。
 着替えていたからか、メッセージの返事はすぐに来た。

「やっぱり石川って子がHeやってたそうだ」

 紘一がやってないという言葉は疑ってないが、立証できればそれに越したことはない。
 如月は紘一のためにもHeを売ってる売人を捕まえようと決心した。

「そういえば、紘一の相談に乗ってくれてるんだろ」
「そんな、相談に乗るなんてほどのことは何も……」
 どうして紘彬が知っているのだろうかと考えながら答えた。

 紘一が言ったとは思えない。
 多分いつも紘一の様子を見ているから気付いたのだろう。

「やっぱり身内じゃない方が言いやすい事もあるんだと思います」
「何言ってんだ。身内だと思ってなければ相談なんかしないぜ」
「そうでしょうか」
 如月も紘一を弟のように思っていたので紘彬の言葉は嬉しかった。

「あいつのこと頼むな。きっと今回の事で落ち込むと思うし」
「分かりました」
「俺も気を付けるつもりだけど、お前も頼むよ」
「はい」

       五

 やはりというか、当然というか、署に帰ると課長に叱られた。

「He?」
「確証はないのですが、一応検査した方がいいかと」
 紘一と如月は石川がHeをやっていたという事を課長に話した。
「高校生にまで広がっているのか」
 課長が顔をしかめた。

「紘一の話によると、歌舞伎町で働いている兄から貰ったとのことです」
「弟に違法薬物を勧める兄ねぇ」
 やれやれというように頭を振ると、
「それにしても、やはり歌舞伎町か」
 課長はそう呟くと、紘彬と如月を解放した。

 紘彬と如月は課長の指示で大久保にある病院に向かった。
 そこに石川の両親が来ているのだ。
 石川の両親から話を訊くのに、高校での現場を見てきた二人が行くのがいいだろうと、課長が判断したのだ。
 病院の待合室に生徒達の親と思しき人は何人かいた。
 四、五人がひとかたまりになっているところから少し離れて二人の男女が怒鳴りあっていた。

「お前がちゃんと見てないからこういうことになるんだ!」
「あなたがきちんと養育費を送ってくれていれば私が働きに出なくてもすんだのよ!」

 かたまりになっている人達の冷たい視線がその二人が石川の両親だと言っていた。

「失礼します」
 紘彬と如月はその二人に警察手帳を見せた。二人が口をつぐむ。

「……まさか、信介と一緒にいるとは思わなかったものですから……」
 石川の母親が如月に言った。
 如月は他の保護者から離れたところで母親から事情を訊いていた。

「信介というのは?」
「信雄の兄です。手の付けられない子で、何年も前に家を出たきりだったんです」

 如月はチラッと紘彬の方に視線を走らせた。紘彬も少し離れた場所で父親から話を訊いている。

「お兄さんというのは歌舞伎町で働いているという?」
「どこでかは分かりません。私には全く連絡をよこさないので」
「信雄君がお兄さんから違法薬物を貰っていたんじゃないかという話を訊いたんですが」
「そんな、まさか……いえ、分かりません。私は朝から晩まで働いていて、あの子とはろくに話をした事がなかったので……こんな事になるなんて……」
 母親はハンカチで顔を覆って泣き出した。

 こんなところかな。

 如月がペンで頭をかきながら紘彬の方を見ると、向こうもこちらに顔を向けた。
 紘彬が小さく頭を振る。

 石川の両親は数年前に離婚していた。
 信介と信雄は母親に引き取られた。
 母親は生活費を稼ぐための仕事に忙しく、ほとんど息子達の面倒を見ていなかった。
 信介は両親が離婚してしばらくして家を出たらしい。
 いつの間にか他の保護者達がいなくなっていた。
 遺体と対面しているのだろう。

「こっちは全然ダメ。父親は離婚してから全く息子達に会ってなかったってさ」
「母親も似たようなものでした。これは兄に話を聞いた方が良さそうですね」
「そのようだな。……石川の遺体、被害者とは違う部屋に安置してあるんだろうな」
 紘彬が言った。

「さぁ?」
「同じ部屋だと修羅場になるぞ。まぁ、仲裁役は俺たちの仕事じゃないからいいけど」
「いいってことはないですけど、きっとこういうことには慣れてるでしょうから大丈夫じゃないですか?」

 紘彬達はそんな事を話しながら病院を後にした。

「なんか、歌舞伎町に来るのが習慣になりつつあるな」
「Heを売ってる連中を捕まえない限り何度でも来る事になりますよ」
「また刃物持って斬りかかってこられたときのために誰かから先に警棒借りておくか」
 紘彬は前を歩く警官達を物色するように眺めた。

「今日行くところは日本人がやってる店ですから拳銃の心配をした方がいいかと」
「帰りたい……」
「まぁまぁ、そう言わずに。拳銃なんてそうそう当たりませんよ」
 如月が苦笑しながら宥めた。

「拳銃持ってるヤツと遣り合ったことあるのか?」
「はい。刑事になる前ですけどね」
「制服警官の時なら拳銃持ってたろ」
「そのときは私服で参加してましたから拳銃は持ってませんでしたよ。仮に持ってたとしてもそうそう抜けませんし」

 確かに一発撃つたびに報告書を書かされるのだ。よほどのことがなければ撃てない。

「あれ? 桜井?」
 向かいから歩いてきたのは吉田だった。
「仕事か?」
「いや、それはちょっと……」

 紘彬自身も、周りを歩いている警官たちも『警視庁』と書かれたベストを着ているのだからバレバレなのだが、それでも話すのは躊躇ためらわれた。

「お前んとこって、歌舞伎町が管轄なのか?」
「いや、その……」
 紘彬が返答に困っていると、アメイジンググレイスが鳴りだした。
 紘彬のスマホでも如月のものでもない。

 吉田はスマホを取り出しながら、
「ま、頑張れよ」
 と言って手を振った。

 紘彬達は歩き出し、吉田は立ち止まったまま話し始めた。
 如月が振り返ると、吉田がこちらを見ていた。

 吉田は如月に気づくと、すぐに視線を逸らした。
 警視庁と書かれたベストを着ている警官の集団は人目を引いた。
 通り過ぎる人達が紘彬達を興味津々といった顔で見ながら歩いて行く。

「あ、ここ」
 警官達が立ち止まった店を見て如月が声を上げた。
「どうした?」
「桐子ちゃんと来た事あるんです」
「デートで? 桐子ちゃんなら麻薬売買してる疑いがある店だって知ってるだろ」
 兄と同じ麻薬捜査官を目指している桐子なら、当然怪しい店の話は訊いているはずだと思ったのだろう。

「はい。だから来たんです」
「気を付けろよ。警官だってバレたら大変だぞ」
「分かってますけど、自分が一緒に行かないと桐子ちゃんが一人で来ちゃいそうで……」
「意外と向こう見ずなんだな」
 如月は、紘彬の呆れたような表情を見て苦笑した。

「そういえば、ここで桜井さんのお友達に会いましたよ。今の吉田さんもいました」
「いつ?」
「初めて来たときですから二週間くらい前です」
「おい、いつまでもくっちゃべってんな。行くぞ」
 団藤が声をかけてきた。

 警官達が店の中へとなだれ込む。
 続こうとした如月を紘彬が引き留めた。

「お前はここにいろ。店員に顔覚えられてるかもしれないんだろ。警官だってバレない方がいい。まどかちゃんには俺から言っとく」
「しかし……」
「そのベストも脱いだ方がいいな。客に見られるかもしれないし。その辺で煙草吸ってる振りでもしてろよ」
「自分は煙草吸いませんが」
「じゃあ、気持ち悪くなった振りでうずくまってろ。そうすれば顔も隠せる」

 いいのかなぁ……。

 しかし、警部補の命令である。逆らうわけにもいかない。
 如月は仕方なくベストを脱ぐと、道ばたにうずくまった。

 紘彬が最後に入っていくと店内にはバーテンダー一人しかいなかった。
 新宿警察署の警部が部下に指示すると、警官が二人、外に出ていった。

「おい、他のヤツらはどこだ」
 団藤はグラスを磨いているバーテンダーに声をかけた。
「見ての通り、誰もいませんよ」
「いないってどういうことだ」
「開店休業ってことですよ」
 バーテンダーは表情を変えずに言った。相変わらずグラスを拭いている。

 そこへさっき出ていった警官達が戻ってきた。

「警部、どうやらついさっき一斉に客が帰ったようです」
「裏口から店員達が出ていったのを見たものがいます」
「情報が漏れたのか」

 それもついさっき。

 外に出てきた紘彬から話を訊いた如月の頭に、吉田がスマホで話している姿がよぎった。

 まさかね。

 如月はその考えを振り払った。
 紘彬はどこへ行くかは言わなかった。
 何の捜査かさえ言わなかったのだから分かるわけがない。

 大体、吉田が教えたのだとしたら、それはHeの売買に関わっているという事になるのではないか。
 そんな証拠はどこにもない。
 それでも、心の隅にこびりついた吉田に対する疑いが消えなかった。

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?