見出し画像

女ひとりでマンションを買うことにした (1)それは3年前に始まった

2020年10月に、マンション購入を決めた

今どき珍しいことではありませんが、昨年マンション購入を決めまして。
そのことについて書いたテキストを、noteで公開することにしました。

ブログでは登山や温泉など非日常を、noteでは日常を綴りたい」

2019年はそんなことを考え、noteに3ヶ月ばかり日記を書いていました。
2020年は「1~3月まで日記はお休みして春ごろから書くつもり」などと当初は宣言していたものの、結局のところ日記は復活できず仕舞いに。

と言うのも、2020年の前半は著書の執筆とそれにまつわる作業に忙しかったのです。noteでは特に告知していませんでしたが、2020年の10月29日に、著書「ひとり酒、ひとり温泉、ひとり山」を出版しました。

「1~3月はお休みする」と宣言していたのは、3月までには執筆を終えている予定だったんですよね……見通しがぜんぜん甘くて、結局8月末ぐらいまで書いていたんですけど。
執筆中のあれこれに関してはこちらの記事でも紹介しています。

8月末に書き上がり、9月いっぱいは校正などの作業に追われ、10月に入ってようやく著書にまつわる作業から解放された!これで日常が戻ってくるわ!!
と思ったのもつかの間、10月上旬に、マンションを購入することが決まってしまったのです。それから先は住宅ローンの手続きやら15年ぶりの引越の準備やらに追われることになり、日記は復活できないまま2020年が終わってしまいました。

購入から引っ越しまでのことを日記に書こうかとも考えましたが、もし「ローンに通らなくて買えなかったー」なんていう顛末になったらちょっと恥ずかしいな……とも考えて、リアルタイムでの更新は避けてしまいました。本当に購入できて、引越まで終わってからひとまとまりの文章にしようと思いながら日々を過ごし、今、新居でこの文を書いています。

日記と同じで、書き留めておくだけで誰にも見せずにしまっておいてもいいのですが「どうせなら人に見せられる形にまとめておきたい」という欲求と「超個人的な話なので拡散されたりするのは嫌だな」という思いから、日記と同様に有料マガジンとして掲載することにしました。

このマガジン「女ひとりでマンションを買うことにした」は、各話2000~3000字で15回ほどの連載になる予定です。(1話目のこの記事だけ、若干長めです)
物件の購入を決めたのは2020年の10月ですが「いいマンション見つけたから買おう!」と、いきなり思い立って決めたわけではなく、購入を検討し始めたのはそのちょうど3年前でした。長い助走があったのです。

どんなきっかけがあって購入を検討し始め、1度は断念したものの、再び思い立って再度物件を探し、何が決め手で購入を決意したか、そこまでを15回ぐらいで書こうと思っています。

これからマンション購入を検討している人の参考になる内容かはわかりませんが、友人にすら話すことはないであろう、個人的な話ではあります。
実は「引っ越す」話は何人かにしていますし、Twitterにもちょいちょい書いていましたが、「購入した」という話は、まだ家族以外誰にも話していないのです。本当に、ここで初めて言いました。
人が大きな決断をする流れであったり、紆余曲折あってとりあえずのゴールにたどり着くまでを描いた読みものとして、興味がある人にだけ読んでもらえたらと思います。

それは、3年前の10月に始まった

「この部屋を買おう」という心が決まって申込書など提出し、売買契約書を締結したのは2020年10月16日のことでした。

契約書に「10月16日」という日付を書いたとき、おや?と思ったのです。
その日は父の命日でした。亡くなってからちょうど3年になります。

思えば「東京で、居住用にマンションを買ってはどうか」という話は、父の死をきっかけに始まったのです。
契約日が同じ日になったのは偶然ですが、何か少し、因果のようなものを感じたりもして。購入を検討し始めてからのあれこれを、忘れないうちに記録しておいたほうがいいかなと考えました。

父は10年以上人工透析をしていたのですが、それに加えて2017年の8月下旬にケガをしてしまい、透析でもお世話になっていた総合病院に入院することになりました。命に別状はないけれど、週3回の透析とケガの治療を通院で行うのは大変だからそうしたのだと聞きました。

母からその連絡を受けたとき、少し嫌な予感がしました。

ほんの10日前にお盆で帰省したばかりだったのですが、東京に戻る直前に、母とけんかをしたのです。帰り際にあれやこれやと言われたことにカチンと来てしまい「そんなに言うんだったらもう帰ってこないよ!」と捨て台詞を吐いて家を出ようとしました。

私は「実家が大好き」なタイプではないし、母との仲もそこまで良くはありません。正直に言えば、同居していた頃はかなり苦手に思っていました。最近はそれなりの関係性を保ってはいたのですが、それも、物理的距離が離れているからこそでしょう。

とは言え、東京と山形という距離があるわりには、私はまめに実家に帰っていたほうだと思います。
お盆と正月は毎年必ず帰っていたし、それ以外でも年に2回ぐらい。年4~5回は2泊3日程度の日程で帰っていました。学生の頃からずっとです。

学生時代はカウントダウンライブに行ける友人が羨ましかったし、登山と旅が趣味になってからは、お盆休みに長期縦走したり、年末年始に登山して初日の出を見に行く人たちをずっと羨ましいと思っていました。

親子なのだから。いい歳になっても結婚もしていなくて、孫の顔も見せられないのだから。旦那さんの実家と付き合っていく気苦労に比べたら自分の実家に帰るぐらい……と思って帰省していたけど、こんなことを言われるために私は東京から4時間半かけて来たのだろうか。

という思いからつい出てしまった言葉が「もう帰ってこない」でした。

そうして、捨て台詞を残して家を出ようとした私を、珍しく父が呼び止めたのです。

「おい!そんなこと言うなよ」と。

父はまだこんな声を出せたのか、と少し驚きました。
そんなに大声だったわけではないのですが、闘病生活に入ってからの父は、声を張って喋るということをしなくなっていました。発声というのは体力がいることなのでしょうね。病気になる前の昔の父の声を、ひさびさに聞いたように思いました。

「なあ、また帰ってきてくれるよな? な?」

念を押すように何度も言われたけれど、気が高ぶっていたし、母への意地もあってすぐには撤回できませんでした。父は私に「冗談だよ、また帰ってくるよ」と言ってほしそうでしたが、それはできず、小さく頷いただけで家を出ました。

ちょっとした諍いではありましたが、そんな別れ方をしてからたった10日後に、入院の知らせがきたので、なんだか不安になったのです。

「少し長くなりそうだし、あんたが来るとお父さん喜ぶから、1度ぐらい見舞いに来なさいよ」

すぐに帰るべきか……?とも考えましたが、ケガ自体は安静にしていれば良いものだというし、入院も2~3ヶ月に渡りそうとのことだったので「土日だけの帰省は慌ただしいし、月曜か金曜を休みにできる週末に帰ろう」と思っているうちに1ヶ月以上経ってしまいました。

ようやく月曜日に休みを取って帰省したのが10月14日の土曜日で、翌日の日曜日に父を見舞いました。
ずいぶん弱っているように思えて心配になったけれど、聞けば数日前に風邪をひいて熱を出し、ようやく下がったところなのだと。解熱の際に使った薬の影響か、一時言動がおかしくなったりもして、私が帰省する前日に母が急遽病院に呼び出されることもあったと聞きました。

でも、熱が下がって食欲も出てきたと言ってにこにこ笑っていて、来て良かったと思ったのです。

それが、生きている父に会った最後になりました。

翌日の朝。
夕方の飛行機で東京に戻る予定でいましたが、それまでは特に予定もなく「今日もお見舞いに行く?どうする?」と母と話していたら、電話が鳴りました。
病院からで「心肺停止状態です」と言われ、わけがわからなかったのですが、もともとの持病からするとこういうケースは珍しくないのだと後から聞きました。

3年前の10月16日のことでした。

東京で、マンションを買ってはどう?

葬儀などでしばらくバタバタしましたが、少し落ち着き始めた頃に母が

「東京でマンションを買ってはどう?」

と言い始めたのです。
たぶん母は、暇だったのだと思います。

ここから先は

1,144字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?