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Lost in a cat


 この世界から猫が消えた。

 道端を歩く野良猫も、家の中でくつろぐ飼い猫も、猫カフェで愛想を振りまく猫も、多頭飼いでエサの奪い合いを余儀なくされた猫も、飼い主がいなくなり保護された猫も、状況の差異に関係なく、また、国籍も種別も関係なく、すべての猫がいなくなった。

 目の前にいないというだけじゃない。その存在自体が人間の認識の外に追い出されてしまった。

 テレビでアニマル特集を組めば必ず画面に映っていたというのに、今はもう見る影もない。

「犬派?猫派?」なんて質問も一切飛び交わない。家で飼う動物といえば、犬か、うさぎか、熱帯魚か爬虫類かと列挙される中に猫の文字は当然ない。どうしてこうなったのかは分からない。



 ただ一つ言えるのは、あの愛くるしい姿を覚えているのは僕一人であるということだけ。そのことに気が付いた時には、絶望感が全身を覆った。



 僕の家では猫を1匹飼っていた。名前は「ララ」。雑種の黒猫で、短い尻尾と金色の瞳がチャームポイント。生まれたばかりのころに親戚の家からやってきて、1歳を迎えたばかりだった。

 毎朝僕を起こしにきて、可愛く鳴いてエサをちょうだいとねだってくる。そのときの甘える表情を見ると、なんともいえない幸福感で心が満たされる。逆らいようもなく心から貴殿に服従し、その要求を受け入れることしかできなくなる。

 誰にも侵すことのできない、僕の神聖なるモーニングルーティン。


 それが、その日はどうしたことか。


 僕を起こすものは目覚ましのアラーム以外になく、家全体がひっそりと静まり返っている。具合でも悪いのだろうか。あわてて飛び起きて1階のリビングに向かえば、母が朝ごはんをテーブルに並べているところだった。




「ねぇ、ララはどこ?」

 ララならそこよ、と返ってくるはずだった。顔を上げた母は眉を寄せ、なにいっているのと言った。

「ララって誰?」

 冗談かと思った。母はたまに人をからかって、面白がるところがある。この時もそうだと思って、「冗談はやめろよ。ララ、僕の部屋に来てないんだけど」と笑って続けた。母は怪訝な顔を崩さなかった。

「なにあんた、誰か部屋に泊めてたの?」

 母の困惑は本物だった。

「おい、どうしたんだ」

 リビングに入ってきた父にも同じ問いをする。やはり同じ返答だった。さすがに冗談ではすまない。僕は半分は怒り、半分は恐怖の感情を抱いて、もういいと震えて叫んだ。そのまま2階の自室に向かって、制服に着替え、鞄を掴んで学校へ向かうことにした。

 玄関で靴をはいていると、心配そうに父と母がやってきて、口々になにか言ってきたものの、そこから意味を拾えなかった僕は無言で家を出た。




 近所に地域猫活動に熱心なオバサンがいた。小さいけど庭と呼んでも差し支えないその場所にはいつもたくさんの猫がいて、そこを通るのが僕の通学ルーティンだ。



 それが、その日はどうしたことか。猫は一匹もいなかった。


 その家のチャイムを押すのにためらいはなかった。はーい、と間延びした声で出てきたオバサンに「猫は? 今日は猫ちゃん、いないんですか?」と言う。オバサンは驚いた顔で答えた。

「ねこちゃんって……あなたの友達かなにか?」

 雷に打たれたような衝撃が起こり、オバサンの前で思わず固まってしまう。なんてことだ。

 僕と顔見知りになったキッカケを忘れたオバサンは、協力できなくてごめんなさいね、と言い残して、そそくさと引っ込んでしまった。



 僕は携帯端末を取り出した。起動させて、タップして動画視聴アプリを開く。

 ホーム画面には、全世界で共通認識である猫の可愛さ、愛くるしさを閉じ込めた動画が並び、それを気の向くままに見ていくのが僕の動画視聴ルーティンだ。

 それが、その日はどうしたことか。ひとつもホーム画面に並んでいなかった。

 検索してみるも、予測変換に「猫」の漢字は出ず、ひらがなで打っても『動画が見つかりませんでした』と冷たい言葉だけが無愛想な色で表示され、あなたへのオススメには、まったく興味のない一発芸の動画たちが横たわっている。僕は膝から崩れ落ちる。


 この世界から、猫が消えた。

 それは、紛れもない現実だった。







 それからどのくらい経ったのだろうか。僕は気が付いたら学校の門をくぐっていた。死にかけの精神を引きずり、校舎に向かいながら、走馬灯を見るようにララの姿を巡らせた。


 ふとしたときに僕の足元にきて、体を擦りつけてくれるララ。

 僕がリビングから自室に戻ろうとすると、とてとてとついてきてくれるララ。

 夜に紛れて怖いなーと思っていたら、小さく鳴いて「ここにいるよ」と教えてくれるようになったララ。

 魚好きで、肉風味のキャットフードには見向きもしないララ。


 ララ……ララ………ララ………………


 ララだけじゃない。あのキュートさで人を屈服させる崇高なる存在を覚えているのは、この世にたったひとり、僕だけなのだ。感情を分かち合えない孤独感に胸を突かれる。


 いったいなにが起きたんだ。


 水の中のように視界が歪む。溺れそうになりながら、ようやく校舎にたどり着く。皆勤賞にはほど遠い僕でも、ここまできたら教室に向かうしかない。顔を上げて、はっとする。階段に黒い姿を見たからだ。

「ララ!」

 僕はその姿めがけて駆け出していた。でも、その黒い姿はするりと階段をのぼっていく。

「ララ!」

 迷わず階段をのぼり、その姿を追う。その黒い後ろ姿で、短い尻尾がゆらゆら揺れる。ああ、間違いない。


 屋上にたどり着いた。

 運動は得意じゃない僕が息を切らしていると、黒い姿、ララは逃げるのを止めて、僕を振り返ってちょこんと座った。


 ああ、なんて可愛らしいお手々なんだ。

 赤ちゃんのクリームパンにも匹敵する丸み。いうなれば、たまごパンのような優しさをそっと床に置いたような手。

 思わず、「たまごパン、落ちてますよ」と拾ってあげたくなる衝動にかられる。それに逆らわず手に取れば、肉球の柔らかさまで堪能できる、一石二鳥の極上のパンだ。

 そんな愛しさをその一点に内包させておきながら、全身を眼に収めようとすれば、留まることを知らない黄金比が思考と理性を断絶させる。語彙力は消え失せ、「ネコチャンカワイイ」しか呟けなくなる。


 にゃっ、とララが鳴いた。

 僕は五体投地を始めた。長い鳴き声も甘えた声も、どちらも非の打ちどころがなく完璧な音波だが、たまに漏れ出る「にゃっ」に抗える人間がいるだろうか。いや、いない。

 なんなんだ、「にゃっ」って。おま、「にゃっ」はずるいだろ。なんなんだよ、可愛いかよ。

 人間でいえば、猫型ロボット漫画でよくある、主人公がヒロインの風呂を覗いて「もう、〇〇さんのエッチ!」って追い出されて「ごめーん、えへへ……」って伸びる鼻の下状態だ。わかる?わからないか、人生半分損してるな。

 いつもかっちりメイクしている彼女のすっぴんを見てときめく感じよ。

 ま、僕、彼女いたことはないんだけど。



 僕が22回目の五体投地を終えようとしたとき、ララが急に走り出す。僕のほうに向かってきたので、僕は受け止めようと腕を広げた。


 抱きしめて、たくさん吸おう。

 その瞬間を想像し、鼻腔を広げながら、初めて猫吸いを試みたことを思い出した。


 僕は最初、半信半疑だった。だって、猫吸いと名前は付いているが、つまりは匂いを嗅ぐということに過ぎないだろう。彼らだって紛いなりにも獣だ、それ相応の匂いがするだけだろう、と。

 僕は愚かだったのだ。

 匂いはメインディッシュではなかった。
 猫吸いの本質はそれではない。

 無防備なその背や、そのふわふわとしたお腹に稚拙な我が顔を埋めさせていただけるという幸福。吸うことで感じる温もり。そして、顔を上げればこちらを見つめる美しい瞳に出会う。これが、猫吸い。これこそが、猫吸いが癒やしといわれる理由。僕はこの世の真理に気付いてしまったのだった。

 イマジナリーララを吸っていれば、本物のララがもう手の届く範囲に迫ってきていた。僕からも近付き、腕を動かす。


 ララ……ララ………ララ………っ!!


 なんてことだ。

 抱きしめることしか考えていなかった僕をあざ笑うかのようにララは僕の体をすり抜けていく。


 幻覚だったのだ。

 こんなクソみたいな世界を否定しようと足掻いた、僕の脳みそが見せた幻。


「あ、ああ、ああああああああああああああああ……!!」


 僕は泣き崩れる。もう嫌だ、こんな世界。

 猫のいない世界なんて、ジキルのいないハイド、使徒のいないキリスト、パックのいない夏の夜の夢、油揚げのないいなり寿司……


 僕は頬を濡らしながら、静かにその意識を手放していった。


 目覚めたときに、猫に溢れた世界に戻ることを夢見ながら。





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