等身大

等身大、という言葉からイメージされる自分像。
若い頃のわたしの場合、それは未熟でちっぽけな存在で
あまり直視したくないように思うものでした。
自分はこのままではいけない、 
もっと成長しなくてはならない、 
そういう焦りから、等身大の自分を否定的に見ていたように思います。 
本来の自分はこんなもんじゃないはずだ、
もっと活躍できる、したい、という
期待や自信に満ちた肯定的な思いが強い場合も
現状の自分の等身大を、不足した存在に感じてしまうのではないでしょうか。

等身大の自分を知ることは
ありのままの自分をみることかな、と思います。
未熟さへの焦りや、能力への期待は
ただ、それがある、ということを認めて 
ちょっと横に置いておく。その上で、
今自分は何ができて何ができないのか。
何が好きか、何が得意か。どうなりたいのか。
受け入れられないものは何か。
助けてもらいたいことは何か。
今の自分をつくる要素を冷静に見つめることが
等身大をはかることかなと思います。

それをどう感じる?どんな氣分になる?というような
感情の部分を切り離しておかないと
焦燥感や不足感で無駄に落ち込んだり
自分を大きく見せようとしすぎて
結果的に自分の首を絞めたりするのではないでしょうか。
生まれ持った資質、家族構成、家庭環境、友人関係などで  
同じような体験をしてもそれで感じるものや
得る教訓は違うものになります。
本当に誰1人として同じ人はいないこと、
面白いなぁと思います。
みんな、その時その時の選択をして生きてきた。
もう生きているだけで、本来は過不足などない
大した存在なのだと思います。

自分の成長を願う時、少しの背伸びが必要な場面もあるかもしれません。
だからこそ余計に、等身大を知っておかないと
両足の腱が切れる勢いで伸びてしまっては
まずは自分が大ダメージ、そして周囲も大変です。
謙虚が過ぎて、わたしなんかがすみません…と
小さく小さく萎縮している人も 
まずは自分がとても苦しく悲しいでしょうし
周囲も困惑してしまいます。
ありのままの自分でいられたら、自分が1番楽ちんで
周囲の人間にもストレスを与えないのではないかと思います。
未経験の部分は伸び代でしかない、と割り切り
自分が生きてきた軌跡を恥じることなく
等身大の自分を見失わずに
他者と関わり、自己表現をしていくこと。
わたしの生きる指針のような考えです。
全員が得意を発揮して、補い合い、助け合い、
思いやりでまわる社会というのは
非現実的なものでしょうか?
国政や世界情勢は不安を煽るものが多いですが
まずは自分自身の柱の立て方
周囲との関わり方を意識して
理想の在り方へと自分を運んでいくことが
理想の社会の実現への一歩だと思います。
等身大を知ることは、柱を立てるのに必要不可欠なことだと思うので
今後も、時々立ち止まって確認しながら
楽しくしあわせに生きていくつもりです✨





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