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ままならないのに

人生を完全にコントロールする。そんなの自分自身にだって無理だ。そんなままならない人生、ままならない世の中。ままならないからこそ、流れに身を任せるしかない時もある。

なのにふと、死ぬほど人の人生がうらやましくなる時はないだろうか。私は基本、同じようなことをしてる人に対してあの子よりももっとすごくなりたいとかは思わない。例えば上手いダンサーや同い年くらいで本を出してたりする子に対して「私だって」とか、「あの子より認められたい」とか、ありがちなライバル意識を持ったことが記憶の限りではほんとにない。最初はそんな自分が欠落人間なんじゃないかとか、好きなものへの愛が足りないんじゃないかとおもって悩む時期もあったんだけど、どうやら違うようだ。私にも他人の人生をうらやましく思う感情があるんだとつい最近痛く実感したからである。私は自分が人生で全く経験できなかった部分を謳歌している人の人生に対して、うらやましいと思うみたいだ。同じようなレールにいる人に対して嫉妬しないのは、きっと自分も経験してるからこそいい意味で「自分は自分」という線引きができているからだと思う。自分が何年も続けてきたことの良さは自分が一番わかっている。きっとその世界ですごいといわれているあの人にもすごいと思っている人がいる。たとえ目の前のライバルに必死に食らいついたとしてもまたすぐに追い越していく人が出てくる。するとまたその人に食らいつく。そんな無駄なことを永遠と繰り返すのか?いや、自分の気持ちのいいペース配分で隣の人と少し話しながら走れるくらいの余裕をもって走り続けることのほうが大切。そう、持久走の原理。長距離派だったので。そんなことはどうでもいい。つまり自分が真剣に取り組んで経験してきたことに関しては、ありがちな言葉で言うならば自分が一番のライバルということがわかっている。だって昨日までできていたことが今日できなくなっていることほど悔しいものはない。成績だって学校で一番になるよりも何よりも、前回から順位や点数が落ちてないかがすべてだった。

そんな私がうらやましいと思ったのは、ごく普通の人生を謳歌しているもう卒業したバイトの先輩。「普通なんて無いよ」なんてことはわかっている。無いようで、あるんだな。ここで言う普通は、社会で渦巻く流れるプールにそのまま流れることができる人。放課後は友達と門限まで遊んで毎日家でご飯を食べて、次の日の学校で昨日の面白かったテレビの話をする小学生時代を送り、運動部に入って部活仲間と合宿したり、友達と放課後勉強会したり、地元の友達と遅くまで遊んだりプリクラとったりする中学生時代。暇な時間がたくさんあって、今日どっか寄って帰らない?とかに対応出来たり、恋愛に盲目になったりする高校時代。サークルに入って普通に同世代と恋愛して、一つのバイト先でたくさん友達作って卒業するまで働いて最後お別れ会したり、後輩におごってあげたり、公務員試験とか受かって安定した職業に就職するような大学生時代。

こういう大きな社会の流れに疑うことなく流れていくことができる人。この流れに対して疑問を持ちながらもただ流されている人に対しては何も羨ましいとは思わないが、その人は寧ろその流れを自ら押し進めているのではないかというぐらい真っ直ぐ。爽快・健康・美。爽健美茶みたいな語呂が似合うような人。

みんなが必死に流れていたら止まりたくなるし、逆にみんなが疲れて失速していたら全力で走りたくなる。時には寧ろ逆走したくなる。そんなあまのじゃくでひねくれてる私には一生手が届かないようなまぶしさ。単純に、自分の人生に余裕がある人は人にも寛容でうらやましいなって思った。

正直、公務員なんてつまらない仕事する人はもっと暗くてやさぐれているんだろうなって無意識に職業を馬鹿にしてた自分がいた。就職しないような人間のことなんて見下してるんだろうなって、逆に私が見下してた。そんな私のくだらない偏見を初めて真正面から引きはがしたような人だった。「自分が何も知らないから」って、誰にでも分け隔てなくその人の好きなものを興味津々で聞いてくるような人だった。聞いてる姿が本当にうれしそうで、こっちまでうれしくなるような人だった。「すごいね!」って素直に言える人だった。

大人になるにつれて人は、「どんな面白いことをしているか」「どれほどのことを知っているか」「どれだけセンスがあるか」で人を判断して、自分が関わっていく人を選んでいくようになると思う。センスがいい人を周りにおいて人脈を広げて仕事をとっていく。そのためには自分もセンスがいいと思われるように頑張って知識を詰め込む。もちろんそれも大事なことなんだろう。だけど時々私たちは小学生の頃のように、損得感情関係なく人を見る目を取り戻す必要があるんじゃないか。特にダンサーとか芸術界隈で生きていくとなると、どうしてもその人が何をやっているかで判断されがちである。なんでこんなややこしくなったんだろうって普通に疑問に思った。何かしらやらないと価値がない人間なんだろうか。どうしてその人のやってること、着ている服、誰と友達か、どんな作品をつくるのかだけを最優先に考えるようになるんだろう。しょうがないのはわかってる。だって自分のやってることを人に認めてもらえないと生きていけないもんね。だけどやっぱり、「センスいいね」とか「ダンスうまいね」とかばっかりの世界で生きてきた私にとっては、その人のまっすぐ人を見れる人生が死ぬほどうらやましく、まぶしい。

どれだけうらやましくとも、中途半端に知識を得てしまった私にはもうまっさらなページに戻れないことはわかっている。そして自分がもし何も知らずに流れにそのまま乗る人生だったとしても、どこかで逆走していただろうってこともわかっている。つまり「普通に生きていく」っていうことができることも、一つの才能なのだ。どれだけ羨ましくとも、私は他人の人生を歩むことはできない。もちろん、自分の子供に歩ませることも出来ない。人生も、世の中も、ままならないからだ。

ままならないから、面白い。ままならないのに、もがく。

ままならない人生を、自分に与えられた運命を、認めながら、たまに抵抗しながら。

生きていくしかないのだ。


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