大切な思いをやさしく千切る
初めてこんなことを書きます。
昔が確実に色あせて、今がとてつもなく巨大になっていく。
尺取り虫の歩みさながら、未来もやがて蝕まれて、私は私の足元さえも責任という文字で埋め尽くしてゆく。
手を、手を差し伸べて、まだ暖かい秋が集う。
水やりを忘れた日のうな垂れた花たちを、そ
れでもなお美しいと思ってしまうのはエゴで
しょうか。
日々がのしかかって蒼く影を落とす。
大切な、大切な人たちを私は、心の中で嘲笑
うのです。
それなのに何故、思いが頬を伝うのでしょう
か。
あの日千切って捨てた手紙の一文が、私の周
りを衛星のように付きまとって離れない。
やさしかったから覚えているだけなのに。
***
流動的な文字だった。
刹の書いたというその手紙は、まるで女性が筆をとったかのような、無骨さを一切感じさせない柔らかい文体だった。私は思わず、
「おばさん、これ本当に刹が書いたの?」
と、彼の母親に聞いてしまった。
「そうよ、芹奈ちゃんに渡してくれって」
私は、何故彼がこの手紙を私に渡そうとしたのかちっともわからなかった。文章もどこか詩的で、つまり何が言いたいのかはっきりしない。おばさんにどういう意味か聞いても、
「それはあの子も教えてくれなかったのよ」
と言われてしまった。本人に確認したくても、彼はもうこの世にはいない。
「あっついねー、芹奈」
なかちゃんがシャツのボタンを一つ開けながら、パタパタと手で首元をあおいだ。もう九月も終わりに差しかかっていたが、この日は夏が盛り返してきたように暑かった。
学校からの帰り道、なかちゃんと別れる三つ目の鉄塔まで、私たちは暑さに負けてだらだらと歩いた。
「国語のパゲがさー、準備室で花育ててんのキモくない?」
なかちゃんは口は悪いが、思っていることをはっきり目を見て言ってくれるところが私は好きだった。
「何の花?」
「知らなーい」
話をしているとすぐに分かれ道に着く。鉄塔を通り過ぎてまっすぐ進むのはなかちゃん。
私は右に曲がる。
小さな公園を通り抜けた先にあるバス停まで一人で歩く。公園では小学生たちがサッカーをしたり、遊具で遊んだりしていた。
私もあのくらいの年の頃まで、よく刹と一緒に遊んでいた。高校に入学してからは、すれ違っても挨拶もしなくなったが。
私たちは家が隣同士で、物心ついた時から一緒にいた。刹は存在感がない子供で、みんなでかくれんぼをすると決まって最後まで見つけてもらえなかった。
大きくなってからも刹は擬態する昆虫のように、その姿を至るところに潜ませた。
私はもう、彼の顔がどんな作りをしていたのか思い出せない。幼い頃あんなに一緒にいたのに。ただ今、葬式のときの黒縁の額に収まった彼のか細い輪郭だけが、目の奥に焼き付いている。刻印のようにではなく、刺青を消した痕みたいに痛々しく。
「葉山刹っていたじゃん?」
次の日私はなかちゃんに彼の話を切り出した。もらった謎の手紙のことを打ち明けようと思ったのだ。
「葉山? 誰だっけそれ」
「え」
なかちゃんは彼のことを忘れていた。同じ高校に通っていて、つい三ヶ月前まで隣のクラスに在籍していた彼のことを。
「葉山と芹奈って、幼馴染なんでしょ?」
などと私に確認してきたではないか。
「葉山って何気に綺麗な顔してるよねー」
存在感の薄い彼の顔を、そう言って褒めていたのに。
休み時間、私は刹のいたクラスの前を通るふりをしてこっそり覗いてみた。生徒たちは教室内を移動していたり、窓際にかたまってお喋りをしたりしているのでどの席が彼の座っていたものなのかわからなかった。もしかしたら、もう机と椅子は片付けられてしまったのかもしれない。
誰かが死んだとき、止まっていた時間がまた動き出すという表現があるが、彼のいたクラスはそもそも最初から、葉山刹という人間は存在していなかったかのように少しの淀みもなく時を進めていた。
刹の影が薄れていく。私自身思い出せないのだから、誰が彼を忘れようと責めることなどできなかった。
でも、手紙がある。彼が私に遺した手紙。これがある限り、私の中に彼はずっと存在し続けるだろう。どんなに薄れたとしても。
授業中、私はずっと鞄の中にしまい込んでいた刹からの手紙をそっと開いた。何度読み返してもさっぱり意味がわからない。縦読みの暗号かも、と思い読んでみてもつながりのある言葉にならない。本当に私に宛てた手紙なのかどうかも、怪しくなってきた。考えれば考えるほど、正解から遠ざかっていく気がした。
頭の中がぐちゃぐちゃしてきたので、私は手紙を鞄にしまい居住まいを正した。今は一応、国語の授業中なのだ。なかちゃんに陰でパゲと呼ばれている、そのままズバリつるっ禿げ頭の先生は、眠くなるようなとろんとした声で教科書を読み上げる。そう言えばなかちゃんが、パゲは国語準備室で花を育てていると言っていたのを思い出した。
花と言えば、私の中では刹のイメージなのだ。彼は花を育てることが好きだった。二階の彼の部屋のベランダには、春になると色とりどりの花が我先にと咲き乱れていた。話さなくなっても、そのことは知っていたのだ。彼の家の前を通るとき、自然と花たちに目がいった。彼がどんな歩き方をしていたか、彼はどんな声だったか思い出せなくても、ベランダから顔を出す虹のような花々を忘れはしなかった。
「失礼します」
放課後、私は国語準備室へ足を運んだ。ノックして中に入ると、ちょうどパゲが植木鉢の中の花に水をあげていた。紫の、名前はわからないが見たことのある花だ。
「中園さん、どうしたのかな」
パゲはジョウロを机の上に置くと、私の方を向いた。トンボのようなメガネの奥の目が揺れる。
「えっと、花って、育てるの楽しいですか」
パゲと二人きりで話している自分の姿がシュールすぎて、思わず別に聞きたくもないことを質問してしまった。絶対変な顔をされると思ったのに、パゲはしばらく黙ったあと静かにこう言った。
「君は何か別のことを僕に聞きに来たね」
私は驚いた。何故わかったのだろう。
「……手紙をもらったんです」
私はパゲに刹のこと、彼からもらった手紙のことを打ち明けた。パゲは相槌を打つこともなく、ただ時折首だけで頷きながら私の話を聞いていた。
「それはフランスのある有名な詩人が書いた詩だね」
私の話が全て終わったところで、パゲは頭に手をやりながらそう言った。
「え、詩?」
「中園さん、君、名前は何と言うのかな?」
パゲは私の質問には答えないで、代わりに名前を聞いてきた。
「もしかして、せりな、だったかな?」
「そうですけど」
毎週二回私のクラスに教えにきているのだから生徒の名前くらい覚えておけ、と思ったが口には出さなかった。
「この詩の題名はね、〝セリナへ贈る真実〟
と言うんだよ」
パゲはやさしい目をして私に語りかけるように続けた。
「葉山くんのことは覚えているよ。彼も花が好きだと言ってよくこの部屋に来たんだよ。彼とは馬が合ってね。葉山くんが病気で亡くなったと知ったときはショックだったなあ」
「どうして、どうして刹はその詩を私に?
題名はわかったけど、詩の意味がわかりません」
「葉山くんは、自分は影が薄いとよく言っていた。だから誰かの記憶に残るには、何か変わったことをしないといけないってね。彼はきっと、君の記憶に残りたかったんだね。そのための方法を探したんだ。自分の死期を悟っていたのかもしれないな」
そこで一呼吸置いて、パゲは噛みしめるようにこう言った。
「中園さん、この詩はね、恋の詩だよ」
その一言で十分だった。花が水を吸い上げるように、私の中に刹の思惑がぐうんと這い上がってきた。成長するにつれ、恥ずかしさと照れ臭さから刹と昔のように話せなくなった。刹もきっと同じだったのかもしれない。病気のことすら、私に話してくれなかった。
忘れていたはずの刹の顔が、熱を帯びて瞼の裏に蘇ってきた。そうだ、彼はこんな顔をしていた。
誰かの記憶に残るには、何か変わったことをしないといけない。
彼がパゲに言った言葉だ。確かにこんな手紙、普通は誰も気づかない。相変わらず意味は分かりかねるが、刹のやさしく流れるような字で、丁寧に書かれたそれは、ラブレターと受け取ってもいいのかもしれない。
刹の家の前を通りかかる。育てる人のいなくなったベランダの花たちは、もうとうに枯れていた。萎れて、カラカラに干からびている。それでもなお、それらを美しいと思ってしまうのは私のエゴだろうか。ああ、何だか今ならあの詩を書いたフランスの詩人、そして刹の気持ちがわかるような気がする。
もう二度と会えない彼を思い出して、今から私は少し泣くのだろう。
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