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【創作訓練】リテイク ~サン・オブ・ウィッチ~

『物語の体操』で、みるみる小説が書けるようになるという課題、第四講である、村上龍になりきって、『五分後の世界』の世界観で書く、というのをやってみました記録。
 素直に書こうとしても書けないのでBL縛りにしたらばもっと書けなかったというべきか、だからまあなんとか書けたというべきか。
 ヤマグチ司令官以外はオリジナルです。あと冒頭は筋肉少女帯。アンテナは売りません。pixivにもアップ済み。


『リテイク 〜サン・オブ・ウィッチ〜』

 母は美しかったが、いかれていた。科学者だった。
 サンルームを改造した研究室にUG兵士たちが現れたとき、僕は白衣を肩にひっかけ、その下には母のワンピースを着ていた。
 合衆国の感染症医学センターは、九州のリゾートで発生した感染症を、ウイルスによるものと断定したのだろうか。地下日本国司令部のほうからコンタクトをとってくると予測はしていたけど、案外早かった。
 アンダーグラウンド。太平洋戦争で焦土と化し、消滅した大日本帝国の末裔。地下に潜って形成された、新たな戦闘国家の兵士たち。かれらに蜂の巣にされる死に様を想像する。悪くないけど、今は抵抗の意志はないと両腕をあげて示す。背中をつたう汗を、母のワンピースが吸った。綿麻だ。
 UG軍の兵士たちは沈黙している。こうして対峙すると、かれらがスラムの憧れでもある理由がよく分かった。絶対強者の国連軍にゲリラ戦を仕掛け、かと思うと国際的な紛争解決には密かに頼りにされるかれらの有り様に、興奮しないわけがない。
 もっともかれらは戦闘のとき以外は、地底にめぐらせたトンネルで生活しているというから、僕には想像しただけで脳貧血だ。
 生唾を飲み込み、発狂した科学者の息子らしく、コーヒーでもどうかと朗らかに尋ねた。僕の研究室は居住スペースを兼ねている。簡易キッチンでお湯を沸かせるし、その気になればレトルトを温めるだけじゃなく料理だってできた。
とはいえ釣り戸棚にあるネスカフェと電気ポットと、僕との間には、銃を構えた兵士が六人。おもてなしはできそうにない。僕は合衆国民のように肩をすくめた。
「九州の『ビッグ・バン』で広がっている感染症のことでしょ? UGがお迎えに来たってことは、『向現』が特効薬になりうるという僕の仮説は当たってたってことだ。少なくともUGの生化学研究所は同じ仮説を立てたんじゃない? ご覧のとおり合衆国は僕に、研究に必要なものは用意してくれるんだけど、スタンドアローンなんだ。情報は限られてる。あとは推測。バイオハザードスーツの大量発注。国連軍内部の反乱。日本国地下司令部は国連から、感染源地域の『処理』を要請されたはずだ。そうでしょ? 中国領の九州に、まさか核を落とすわけにもいかないし。ああ、そういう提案をする能無しが、国連にいないとは思わないけど」
 UG兵士たちは、銃口ごしに僕のおしゃべりを聞いている。UGの大事な資金源、完璧な向精神薬『向現』を開発した科学者の息子。母親の形見の派手なワンピースを着て、誰にも頼まれていない研究に勤しむ僕は、かれらの目にどう映っているだろう。
母は畏敬の念をこめて、魔女と呼ばれていたそうだ。その魔女の魔法を、再現可能な科学にする日本国民の器用さと根気強さだってじゅうぶん魔術だと、母が笑って話してくれたことがある。
 高級リゾート地『ビッグ・バン』で発生した致死率100パーセントの感染症、今世紀最悪のウイルス。その正体を解き明かすために魔女の息子が必要だというなら、ちょっとゾクゾクする。なおかつ僕自身は特効薬の開発中にそのウイルスで死ぬなんて、最高に洒落た死に様な気がした。
 僕はゆっくりとUG兵士の顔を見回す。何人かは、兵士というだけでなく科学者だろう。ここで僕の品定めをして、不要なら殺す気だ。連れ帰ってからなんて無駄なこと、かれらはしない。
つまり僕はこの場で、僕の有用さを示さなければならない。無意識に唇が尖った。情報さえくれたら、もっと精緻な推論を組み立てられるのに。
 地下司令部から作戦を命じられた部隊は、とうに九州に現着しているはずだ。感染者のサンプルを手に入れて、生化学研究所では分析を始めているかもしれない。その情報があれば。
 不満が顔に出たのか、銃口の囲いがわずかに狭まった。僕は笑顔の膜を頬に貼る。
 いずれにせよ、ウイルスを封じ込めることは不可能だと僕の勘はアラートを発し続けている。鎮静化どころか世界を浸食するまで、そう日数はかからない。この最悪なウイルスに、日本国だけが作れる向精神薬『向現』が使える。特化させた亜種を作るのが、より有効ではあるけど。
 ふと、UG兵士のなかにひとり、ずいぶん若い兵士がいるのに気づいた。ラボに通じるドアのそばで、僕の白いベッドに万が一でも誰か隠れていないか確かめている。良い勘だ。天才科学者の遺伝子を欲しがって、白衣のアバズレが襲いかかってくる夜もあるから。
 誰もいないと確認すると、かれは銃を構えなおした。肌の肌理からして、僕と同じ年頃だろうか。その目が僕のワンピースのヒマワリ模様に注がれる。かれの目は、香りの良い墨で描いたように、とても美しい形をしていた。
 突然の、熱。視線にかきまわされたみたいに、血が、突沸した。体が熱くなり、自制できず、まくしたてる。
「僕の母が何年も前に死んだのは当然把握してるね。あなた方UGが、すぐにも僕を『処理』しに来なかったのは、眼中になかったから? それとも僕が母の才能を受け継いで、いつかこんな時に役立つかもしれないと予測して、合衆国預かりのまま放置プレイ? この事態に、僕が母並みの魔法使いなら『向現』をベースに抗ウイルス剤を作れる、そう分析して拉致しに来たってわけだ。知ってる? 母が死んでから、ラボの連中は僕の軟禁状態を継続すべきか迷ってたよ。UGが監視を打ち切ったかどうか、かれらに教えなかったんだね。そうでしょ。僕は母から『向現』の分子式を聞いてるかもしれないし、それなら合衆国にとっても利用価値はある。けど、ホントにそうなら、UGが野放しにするはずがない。もっともイタズラで粗悪品を作ってみせたら、自分たちの設備のお粗末さは棚にあげて、秘術を継承しそこねたポンコツみたいに罵られたけどね。マーケットで流通してる二流品の中では、まあまあマシなレベルに調整したんだ。UGに注目されすぎない程度に。僕を養う費用くらいはそれで稼いでるはずだ。たまに殺されかけたりするけど、やり方がつまらなくて死ぬ気になれない。だからまあご覧のとおり、まずまずの暮らしだよ。『向現』のご利益かな。ああ、日本国には感謝も恩義も感じてない。でも恨んでもいないことは知っていてほしい。母を殺さなかったからね。軟禁といっても、太陽の光のある生活を母にくれた。月数からして父親はUGの誰かに違いない赤ん坊の僕も、殺さなかった。母は僕に『向現』のレシピを教えなかったよ。厳密には、暗号化されてた。教えるつもりだったのか、ただいかれてただけなのかは分からない。僕が解読できたのはやっと十四歳のときだった。母はまるで僕が解読するのを待ってたみたいに死んだよ。母は父のことと同じくらい南米の太陽を愛してた。この部屋で死んだ母は幸せそうだった。僕の父親はUGにいる。ラボの誰かだろうなんて、誤魔化すような無駄はしないね? 狂ってたってUGの最も優秀な科学者、『向現』の開発者をどうこうできるタマはここにはいない。そんなのがいたら、殺されてやってもよかったのに。気が向いたらでいいから、父に、母はいかれてたけど幸せそうだったと伝えてほしい」
 指揮官らしい男が、背後にむかって銃をおろせと合図した。一歩進み出てくる。僕は思いついて、ラボの連中は生きてるかな、と尋ねた。飛行機やヘリを飛ばせるヤツは生かしておいてくれてたらいいんだけど。
 男は質問には答えず、ノガミと名乗った。階級は少佐。僕はキジマ・クラノスケと名乗ってから、白衣の肩で口元をこする。しゃべりすぎた。冗長さは僕の性質だけど、シンプルな規則に従い行動するUG兵士の前では、恥ずかしさで卑屈な笑いを浮かべてしまいそうだ。
 ノガミは僕を拉致する目的をシンプルに語った。僕がさっきべらべらと述べた推測を箇条書きにしたみたいな話し方。でも新しい情報はないから、さっきの、年の近そうな若い兵士を盗み見る。ずいぶん上背があった。僕と同じくらいありそうだ。
 UG兵士のことも、母の戯れ言で聞いていた。みな流暢な英語を話し、ゲリラ戦に長けて神出鬼没、剃刀のような目と笑わない唇を持ち、主語は「我々」。サンルームに、音もなく陽炎が実体化したように現れたときは、確かにそのとおりに見えた。振り向いたとき、何故かバオバブの木を思い出した。かれはその中で、一本の若竹だ。
 潤った瞳と、ほんの一瞬、目が合った。撃たれたように意識が跳ねる。兵士が作戦のターゲットに注意を向けたに過ぎない。そうと分かっていても、電流が流れて、僕は突然しゃべり狂ったわけ、血が沸騰したわけを知った。
 なんてことだ。天才科学者の子種のために、才色兼備がハダカ白衣でどんなに腰を使っても、こんな思いはしたことがない。生まれてはじめてのこんな瞬間に、僕はいかれた母のワンピースを着ている!
 ……我々はヒュウガウイルスの特効薬を作る必要がある。ノガミの見事な英語が耳に飛び込んだ。思わず被せ気味に返す。分かってるっつの、『向現』の亜種だ、さっき僕が言ったじゃん。英語ではなく、年上への敬意を欠いた日本語で。ノガミが気分を害した様子はなかったが、背の高いかれの視線がノガミと僕の間を行き交った。生まれたときからアメリカにいる僕が、教科書どおりじゃない日本語を話せるのに驚いたのだろう。小鼻がふくらんだ気がして、また白衣でこすった。
「僕なら作れる。UGの研究者より早く。だけど条件がある」
 ノガミは首を左右にした。僕は唇を突き出す。地下司令部に大人しく拉致されるか、ここで殺されるか、二択しかないらしい。慎重なUGは、僕以外にも有用な選択肢をもっているはずで、ゴネるようなら切っても構わないってことだ。僕を使うのが一番確実だと口を開いたとき、別の兵士が不意に動いた。持っていた通信端末をノガミに見せる。眇めた目が、端末の画面と僕を交互に見た。
「条件を聞こう」
 情勢に変化があったようだ。舌で唇を湿す間があって、
「だが、君の父親について、我々は何も聞かされていない」
 それはどうでもいい。僕はまた肩をすくめた。地下司令部に戻ればノガミはきっと、報告のついでの些末な話題として、あるいは食堂での雑談で、僕の遺伝子上の父に、伝えるだろう。
 美しい目のかれを視界のすみにいれながら口を開いたとき、閃光と炸裂音が、サンルームの強化ガラスをふるわせた。

◇◇◇◇◇◇

 かれの名前はシマタニといった。地下室の乏しい明かりに、シマタニの白い横顔は亡霊のように美しい。
 ノガミは爆発のあと即座に、これがラボへの襲撃であり、目的が僕であると判断した。僕は第一の条件として、護衛にかれを指名した。すぐに監視と言い直したけど、名前をたずねたときにかれが、UG兵士にあるまじき、明確にイヤそうな顔を見せたのがたまらなかった。
 それからウイルスについて、持っている限りの情報も要求した。ノガミたちが襲撃者の正体を確かめ、なんなら殲滅するまでのあいだ地下室に身を潜め、僕はサブの通信端末にダウンロード済みの、ヒュウガ・ウイルスについてのデータと報告書を読んだ。出血、筋痙攣、アナフィラキシーショック。電子顕微鏡の写真は、母が「あちらの世界」からずっと大事にしていたブレスレットによく似ていた。
「あちらの世界?」
 はじめてシマタニから口を開いた。落ち着いた、心地よい声。僕だけずっとしゃべり続けていたから、喉がカラカラだ。
 独り言は母が死ぬ前からのクセ、いや、母から受け継いだ習慣だ。床に座り、資料を読み込みながら時に読み上げ、仮説を語り、合間に関係のない僕の生育歴を差し挟むのを、シマタニは訝しそうに聞いていた。独り言のつもりだったのに、僕はかれに聞いてほしがっていたと気づく。端末のバックライトで、僕が赤面したのをシマタニは見ただろうか。
「こことは少しズレた世界だよ」
 発狂した母の、妄言のような話を、かいつまんで教えた。こことは違う世界、こことは違う日本から、母は迷い込んだのだという。そこでの日本は、広島と長崎に原爆を落とされた後に降伏した。本土決戦は、なかったし、アンダーグラウンドも存在しない。
「非常に、優れた研究者だったと聞いている。天才だと」
「そうだね。僕の前では一日中、古い映画を一人芝居で再現してくれる、エンタテイメントな母だったよ。クラノスケという僕の名前の由来、シマタニは知ってる?」
「敵を欺くために道化を演じた人物の名だ」
 シマタニが、華やかな母のワンピースに視線をむける。わずかな光でも、睫毛が頬に影を落とすのが見えた。僕は脚を伸ばして花模様のすそをバタバタさせる。息苦しかった。
「その世界の日本では、優秀な科学者が多いのか?」
「違うと思うな。ごくたまに、正気なとき言ってた。母は変人扱いされてたらしい。『オンナのクセに』だって。嫌がらせもひどかったって。母は、こちらの世界が気に入ったんだと言ってたよ」
 逆かもしれない。「あちらの世界」の話をするとき母は狂っていて、見えない勧進帳を手繰り、陣太鼓を鳴らし、また負け戦だったと呟くときこそ正気だったのかもしれない。
「生化学研究所で、聞いたことがある。敬意を込めて、月ではなく、太陽に愛されたマッドサイエンティストだと」
 シマタニが長いセンテンスを話す。シマタニ自身も生化学を学んでいる。ひょっとすると、母に敬意を抱いているのか。誇らしいような妬けるような思いが、背中の病巣を疼かせた。
「愛されていた、と言えるのかな。母は日差しを浴びすぎて死んだわけだし。とはいえ、太陽に悪意はないからね」
シマタニは異世界から来た天才科学者なんて突拍子もない話を、否定も嘲笑もしない。もっと声を聞きたかった。母のことじゃなく、もっと僕を語り、かれに知ってほしかった。なのにシマタニは、資料を読み込む邪魔になるとでも考えたか、口を閉じて、僕の監視役の顔に戻った。
 僕はまたおしゃべりをしながら感染者の症状、採取した血液の分析結果を読み込んだ。ウイルスの画像が、思考の中で蠢き、活動を始める。そのそばに、シマタニの姿がある。
 シマタニは鏡だ。サンルームに漂う僕という粒子は、かれを見つけてはじめて身体を得た。死にたがりのくせに死に方を選り好みしていた僕への、これは罰だろうか。太陽の下でしか生きられない僕の前に、どうしてこんな美しいアンダーグラウンドの兵士が現れたのだろう。
 いまは通信を切った状態だが、ノガミに返せば通信は可能だろう。端末のキーボードで分子式を打ち込む。すべて記述するのは不可能だ。時間がない。UGの生化学研究所なら、このレシピで理解するはずだ。母のブレスレット。思考がバウンドするのを感じる。
 分子式の波間から跳ねるトビウオ。感染したUG兵士。母が愛した太陽。唯一の生存者、角膜ジストロフィーの少年。アインシュタインがUGを訪ねたのは1972年、差別のない国だと賞したってさ。頚椎を折る筋収縮。戦闘国家。波打つ内臓。森が動く。トンネル。免疫。手を濡らしつづける血。兵士。視力を失いつつある少年。魔女。ヒスタミン。最後の審判。恋。
「人間は、大雑把にいうと遺伝半分、環境半分で決まる。UGで、国の存続にとって不要、危険と見なされた存在はどうなる?」
 思考が、助走をつけて高く飛び上がる。シマタニの表情はよく見えない。
「まだ『一目惚れ』という日本語は生きてる? 特効薬を開発したら、僕はその功績で準国民か国民になるのかな?」
 アンダーグラウンド。地下国家。シマタニが、わずかな光でもきらめく目で僕を見ている。狂ってしまった母。僕の条件はシマタニ。僕もとっくに狂っている。
「必ず、一定数はUGに馴染めない遺伝子をもった人間が出現する。環境とのミスマッチも。準国民ならともかく、地下で生まれ育つ異分子をUGは、司令官は、このウイルスは、」
 脳が弾けるような感覚。
「バイオハザードスーツは?」
 シマタニが頷いた。
「用意している」
「ノガミ少佐に連絡してくれ。昨日、このコロンビアに帰ってきたラボの出資者。先月『ビッグ・バン』に別荘を買ったと自慢してたって、研究員が話してた」


 スーツの着方はシマタニが教えてくれた。襲撃者は十数人。資料にあったような、目立った症状はないそうだ。数人がひどい汗をかいているのは、初期症状かもしれない。『ビッグ・バン』から帰った当人ではなく、雇われ兵士だろう。
 ラボの屋上にあるヘリポートのことは、ノガミは確認済みだった。借りた端末に、筋収縮の発作をおさえる『向現』亜種のレシピを打ち込んだことを伝える。頷いたノガミは、端末を部下に渡した。信用はされていない。
 エレベーターは避けて階段を使う。バイオハザードスーツを着るとき、ワンピースは脱がずに腹のあたりまでたくしあげて押し込んだ。背中のホクロを見られたくなかった。動き慣れない。襲撃者たちは僕のサンルームを避けて攻撃した。ラボ内部には入り込んでいるだろう。ヘリポートに先回りする頭はあるだろうか。サンルームに僕がいないのを確認してから追ってきているなら、おそらく。
 どこかのドアを乱暴に開ける音が、階段室に反響する。
 予測はできても、戦闘経験のない僕の体は反応できなかった。階段の踊り場に騒々しく現れた男たちが、UG兵士に薙ぎ払われ、防護ヘルメットをかすめて転げ落ちていく。僕の後ろにはシマタニがいた。何かがおかしい。階段を駆け上がる足を止めないまま上を見た。透明なフェイスマスクに、鮮血が降りかかる。それと刃物の閃き。
 物凄い力で引き倒された。階段で背中を打って、息が止まり視界が暗くなる。倒されるのと同じくらいの強さで今度は引き起こされ、引きずられてまた階段をのぼった。光が徐々に戻ってきて、僕を半分担ぐように支えているシマタニも血を浴び、そのスーツが大きく切り裂かれているのを見た。


 ヘリは七人乗りだった。シマタニはタオルで血を拭っている。わずかに青ざめて見えた。
UG兵士は、ウイルスでは死なない。僕が保証する。声を上げたけど、会話が困難なヘルメット越し、プロペラ音もあってシマタニには届かない。聞こえたとしても、根拠のない励ましに思っただろう。
 兵士の一人が通信端末を見せた。『ビッグ・バン』で一人のUG兵士が感染し、発症した。合衆国が正式に、ウイルスの特効薬の開発を要請し、日本国は受諾した。僕はノガミを、危機的状況でも冷静に対処するUG兵士たちを見つめた。
 これは最後の審判だ。何故ここに僕がいる? 特効薬のレシピは、僕の脳細胞をざわめかせている。これを現世に生成するには、UGの生化学研究所と、僕の手技が必要だ。
 UGは、それを望むのだろうか?
 特効薬を作れる可能性がある僕を連れていくのは、世界に向けてのポーズではないか。司令官は知っているのではないか。このウイルスが何のもとに屈するのか。
 脂汗がわきの下を流れる。浅い息しかつけない。分厚い手袋越しに、シマタニが手を握ってきた。気がつくと操縦士以外は全員僕に注目している。きっと感染したシマタニよりひどい顔色になっているせいだ。それか、考えたこと全部を独り言で口にしていたか。後者だとしても、詳細には聞こえなかっただろう。ヘルメットを脱いで、シマタニにキスがしたかった。僕の細胞はアンダーグラウンドを拒絶している。それでも最後の審判に抗いたいという官能的なまでの欲望は、マッドサイエンティストの遺伝子だ。
 ヘリから飛行機に乗り換えるとき、通信端末の命令文が読み上げられた。ノガミの報告を受けた司令部は、感染したシマタニを生体実験のため早急に生化学研究所へ連れてくるよう命令した。僕も、改めて、正式に招かれた。
 一片の疑い。ウイルスは、UGが人為的に作ったのではないか。遠雷に似た閃きを僕は打ち消すことにした。
 特効薬はUGのもとで、僕にしか作れない。それならどのみち世界はUGの掌の上だ。僕の仮説が正しければ、シマタニより早く感染した兵士は『向現』で筋収縮を抑制し、アナフィラキシーショックも乗り越え生還するだろう。
 UG兵士は、ウイルスに勝つ。世界は、非常に強い危機感を日常的に乗り越えている人間だけが生き残る。
 これが神の手による選別か。特効薬を作れる僕は何故、それを必要としないUG兵士に恋をしたのだろう。

◇◇◇◇◇◇

 生化学研究所で、シマタニは隔離室へ連れて行かれた。見えている肌にはすでに初期症状の赤い斑点がある。キスマークでも見るように歯噛みする僕自身を、滑稽だと笑う余裕はなかった。
 兵士の一人から、研究者たちに紹介される。歓迎は期待していなかったが、思いがけず年嵩の男から握手を求められた。
「私の母は、昔ここでキジマ・アイコさんと一緒に研究していた」
 母のフルネームを他人の口から聞くのは新鮮だった。ラボではだいたい「あの魔女」と呼ばれていた。カザマと名乗った男の、見た目に反して柔らかい手を握り返す。僕が端末に打ち込んだ『向現』亜種は、あのあとすぐに送信されていた。検証を済ませ、試作がもうじき仕上がるそうだ。
『ビッグ・バン』で感染した兵士には間に合わないだろう。カザマは淡々と言った。心停止後に採血と解剖が行われる。そのデータで我々は特効薬を開発する……。
 その兵士が発症するより先に、僕が特効薬を完成させる。断言すると、こいつは天才か狂人かと見定めるようにカザマは首を後ろに引いた。功績を上げて、国民として認められたいのだと踏んだらしい。適切に飼いならせる限りにおいて、野心は大事だ、という意味のことを呟いて、僕に使用を許可されたスペースを案内してくれた。
 UG国民が『向現』だけでウイルスに抵抗し得ると知ったら、司令部がどういう判断をくだすか僕には推測できなかった。


 特効薬のために、改良した『向現』の効果が見たいからと、隔離室のシマタニを訪ねる許可を得た。ここへ着てきた母のワンピースは、洗濯と消毒を済ませて戻ってきていたものの、また防護服の下に着るかどうかは迷った。配給された、機能的な作業着のような上下と見比べ、ワンピースを選ぶ。
 シマタニは内出血の斑点を肌に浮かせ、汗をかいていたが、落ち着いた澄んだ目で僕を迎えた。
 様子を見るだけでは不審がられそうだったから、採血キットを携えた兵士も同伴している。それに、証人もいたほうがいい。
 傍らに立って、自覚症状のことをいくつか訊ねた。メモをとりながら、トーンを変えずに気になっていたことを質問する。
「母のワンピースを着た僕を、どう思った?」
 採取した血液にラベルを貼っていた兵士が、顔を上げた。地下室の短い間、僕の独り言に付き合ったシマタニは動じない。答えを探すように、数秒目を閉じた。睫毛の影。
「カッコイイ、と」
 耳を疑った。ほんの一瞬、はにかみ笑いを見せたシマタニの顔には、嘘もからかいもない。僕が黙っているので、答えが不充分だと考えたのか、
「白衣の下の、空色に、鮮やかな金色の花模様。空調の風にゆれるすそから、すね毛の脚が伸びて、白衣がまるで」
 また、さっきの笑みが頬をよぎる。
「古代の勇者の、マントのようだった」
「想定外だ。君も頭がおかしいらしい。ウイルスの初期症状として、そんな報告はなかった」
 シマタニは目を閉じた。唇がほんのりカーブを描いている。キスがしたいと思った。
「特効薬を、作ったよ」
 水墨画のように美しい形の目が、開いて僕を見る。
「実験するのか」
「そうだ。でも、その前に、君の名前を教えてくれないか」
「シマタニ」
「アバズレのように焦らすのはやめてくれ」
 不思議そうに瞬きしたシマタニは、他意はなかったとまた目を閉じ、ヒカル、と呟いた。
「ヒカル」
 泣きそうになる。何度、恋をさせるのだろう。母は太陽と父を愛し、正気を失った。僕は遺伝子の奴隷だ。
「ヒカル、許してくれとは言わない」
 邪魔されないよう素早く行うために、脳内で何度もシミュレーションしてきた。ヘルメットを脱ぎ捨て、ベッドのシマタニに覆い被さる。特効薬のレシピはカザマに託してきた。試作品は胸ポケット。ここで兵士に撃たれても本望だった。
 首の後ろに手をそえて、キスをする。熱くて、ぐにゃりと柔らかい体。血の味。搾り取るようにきつく舌を吸った。
 いきなりすごい力で引き剥がされ、床に打ち付けられる。向けられた銃口を見つめながら言った。
「特効薬の被験体は僕だ。いいか、見てろよ、『ビッグ・バン』で感染した兵士は改良前の『向現』でも生き残る。そして、かれもそうだ」
 準国民もそうである可能性が高い。僕の特効薬は、そうではない人間のために開発した。ウイルスに対抗する免疫系を獲得していない人間のために。日本国国民や準国民には、むしろ過剰な副作用が懸念される。
 僕はその場で射殺されることは免れた。魔女の息子の不可解な行動がヤマグチ司令官に報告されるのと、先に感染していた兵士が『向現』と筋弛緩剤でウイルスから生還したという第一報が入ったのとは、ほぼ同時であったらしい。


 もうじき筋収縮発作が起こるであろうシマタニの隣に、僕のベッドは運び込まれた。司令官の指示らしい。キスしたことまで報告されて、シマタニになら僕が黙っている情報を話すと考えたのだろうか。残念なことに、お察しのとおりだ。
 シマタニの筋収縮の発作は、もういつ来てもおかしくない。カザマは瞳孔をチェックする役でベッドサイドに立っていた。
 特効薬のレシピについて、またカザマが聞いてくる。短時間で完成させた秘訣を知りたがっていた。仮説が僕を捉えてからすぐに分子式は頭の中に描いていたから、UGに来てからはそれをなぞるだけでよかった。なぜその式を描くことができたのかは、説明できない。それに、生化学研究所の設備の良さのおかげもある。
「再現するのは、科学者の役目でいいだろう」
「君も科学者だ」
「僕は魔女の息子だよ」
 カザマは首を振った。
「魔女の息子が、同時に科学者あって何がいけない?」
 特効薬がどのように作用するのか、僕の仮設をまだ全ては明かしていない。時間をかけ、実験の結果も合わせれば読み解くことは可能だろう。僕が提供した情報は、ひとつ。感染初期から僕の特効薬をのめば、女から生まれた人間なら、ウイルスに殺されることはない。
「マクダフは死ぬのか?」
 持ってまわった言い回しに、カザマが当然の質問をして、シマタニも視線を僕に向ける。まだ体の固定はされていない。
「魔女の予言どおりにね。死んだ女の腹から引きずり出されたマクダフだけが、マクベスを殺せたように」
 並べたベッドで、シマタニのほうへ首をひねって頷いてみせる。
「ある種の極限状態が、結果的にアナフィラキシーショックを抑制する液性蛋白因子を作り出す。僕の特効薬は、たいがいの人間が、思い出せないだけで、脳に刻んでいる最初の記憶、非常に強い危機感と、そこから生きようとする意志の記憶を掘り返す。思い出せない記憶というのがポイントかな。思い出せる記憶を薬でリテイクする場合、精神に影響を及ぼさないとも限らない。安全策だ」
 汗をぬぐいながら僕はおしゃべりを続ける。意識はクリアだ。発作にそなえて待機し監視する目がある中、出血しているシマタニをうっとり見つめているのを、正気だといえるなら。
「わからないかな。出産だよ」
 おぎゃあ、とおどけて泣き真似をしてみせる。
「出産のときの記憶を、細胞レベルでリテイクして免疫を獲得する。何が誘発され、反応し、アナフィラキシーショックを抑制するのか? それは現時点では分からない。魔女の遺伝子が僕に教えた、ただの勘だ。でも、これでUG国民のような、常に危機感をもつ生き方をしてこなかった人間も救える。問題は、司令部がそれを望むかだ」
 放っておけばウイルスは世界中で猛威をふるい、日本国国民は生き残る。それはアンダーグラウンドが望む世界だろうか。
 それを望むなら、特効薬があることなど隠匿すればいい。僕ごと抹消する。手をくださなくても、母と同じ遺伝子の僕は消えるが。だけど被験体として、それで特効薬に効果がない、失敗作だと思われるのもしゃくだから、出生状況を確認したうえで、すでに感染していた外国人を同時に被験者とした。仕上げに、僕自身の出生を語っておかなければならない。
「ヒカル、君に黙っていたことがある」
 僕はマクダフだ。僕は難産で、自然には生まれなかった。UGが手配したという優秀な医師の手で、切り開いた母の腹から引きずり出された。僕にはリテイクする記憶がない。僕は予言した。女から自然に生まれた者はウイルスに殺されない。
 感傷的に考えるなら、難産は、それほど僕と母の結びつきが強かった証とも言える。強すぎて、引き剥がされてからも、今度は同じ病で死ぬほどに。UGは「不作為」によって母を殺すチャンスは何度もあった。重要な、『向現』の作り方を知っている母を、地下国家から太陽の下へと返さなければ、母は狂ったまま死んだはずだ。僕の出産のときだって、医者など手配しなければ、胎児ごと処理できた。なのに、そうしなかった。明確に、母と僕を生かした。アンダーグラウンドでは生きていけない遺伝子を。感謝も恩義も感じていないと言ったのは本当だけど、疑問はある。厳密さ、優先順位を明らかにし、無駄なことは一切しないUGの司令官が、まさか、愛なんてもののために綻びを残すとは思えない。
 クラノスケ、と名前を呼ばれた。『向現』の亜種が効いているとはいえ、体のあちこちで水疱がやぶれ、出血している。ヒカルは辛そうにしながらも、一言ずつ、大切なものを手渡しするかのように、言葉を押し出した。
「君の人生に、危機感をもち、それをエネルギーに変えるような経験が、一度もなかったとは思えない」
 僕は笑って首を振った。助からない方に賭けているんだ。母が死んでからは余生だった。今は、ヒカルに恋をしたという記憶を最後に、もし可能ならヒカルの側で、ヒカルに看取られて死ぬのが希望だ。
「目的のために何をすべきか見定めるよう、日本国国民は訓練されている。つまり、そういうことが、クラノスケよりも得意だ」
 ヒカルが変につっかえる言い方をした。
「だから……ぼくが、側に、いれば、きっともっと、良い方法が見つかるだろう」
 シマタニが『我々』ではない主語で話すのを、はじめて聞いた。
「もういっかい、……もういっかい、言ってくれないか?」
 不意にヒカルのまぶたがふるえる。燃えるように熱い、と呟いた。カザマが敏捷に動く。発作が始まった。ヒカルのベッドが人に囲まれ、姿が見えなくなる。
 ああ、と腹の底から熱い息がもれた。喉が焼けるようだ。
 もう少しだけ、もっと、生きていたいと、僕は何かに祈った。

END
2019/08/29

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