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温度

 カラッカラに乾いている私の傍で何方かがシメシメと湿り出した。 連れが現状を語っていたのを聞いてしまったのだろう。つらい、かなしい、せつない、そんな境遇への哀憫を目の端に湛えて、鼻の奥に込み上げる同情を軽く啜り上げる。わあすごい。赤の他人の話をこんなに真っ直ぐに受け止める素直な心。盗み聞きになってしまった居心地の悪さなど感じてはいなさそうだ。かわいそう、という呟きまで聞こえてきた。おねえさんたち、それは余計な一言ですよ。

 目の前の友人はその反応に一瞥をくれるものの、満足も不愉快もない表情。あれはただの景色の一部であり、聞いていようがいまいが己には何の関わりもない。人の居る場所で喋っていれば話が耳に入ってしまうのは当然で、聞かれたくなきゃ言わなければいい。友人の脳内はその前提が活きている。盗み聞きなどという皮肉で論おうとした私のほうが、よっぽど人目を気にしている。ただ聞いているだけなのに。

 見知らぬ誰かが発した湿り気で一気に湿度が上がった。じめじめ。そんな話を聞かされて困るとかそういうことはないものの、この外から覆われていくような異臭感漂う雰囲気。ドライな私を責めているのか? などと被害妄想を炸裂するほど子供ではないが、何で外野が私たちの取り巻く空気を演出するのか。気にしなければいいったって、圧が強い。なんてことない休憩所で、涙ぐんでる人が居たら何だと思うだろう。実際は話してるこっちのせいだが。

 おねえさんたちの身には恐らくこんな異臭騒ぎなど起きていない。こんなとこでそんな話するなよ~、なんて思ってもいないようにも見える。敢えて言うなら話題を選ばない私たちのほうがおかしく、そのような場に居合わせてしまったことを迷惑そうにもしていないのが不思議だ。これは、おかしな人とおかしな人の作り出したおかしな空間と言えなくもない。

 私は友人にかける言葉を持たない。彼女はそれを期待していないからだ。だから相槌を打つのみで、ただ「報告を聞く人」に徹した。変わりがあればまた連絡するから、と言われそれに頷く。こんなのは誰にでもできるというのに、数ある交友の中から選ばれたのは私だった。友人も要らなかったのだろう、その間に発生する極端な湿度が。そうでなければ私が呼ばれることなどない。私たちの間には見事なまでに乾き切った、適度な隙間が存在するのだ。

 しかし彼女は背景の指定をしなかった。おかげでこの有様。それでもいいと思っていたのだろうが、私はちょっと遠慮したい。来たことのない場所だったのが災いした。ただ会うだけの約束だったから細かいことは決めなかった。視線を感じつつも、やっと解放される。

 ドライなのはむしろこの友人のほうで、彼女の変わりなさはあまりにも平板で、少し憧れてしまうほどだ。お互いの買い物を済ませ、軽く食事をして、何もなかったように別れる。きっと今までと変わりなくたまにしか連絡は来ないだろうし、それも必要があればの話だ。私からも、何かあったら言ってよねと、それくらいしか言えることがない。それで特に問題があるとも思えない。なのに。

 一人の帰り道、再び遭遇したおねえさんたちに気付いてしまった。なんで見ちゃったかなあ。向こうは私に気が付いていない。駅前の人混みで、それなりに大きな声。こういうときって聞きたくないことほどよく聞こえるから、人間の脳はよくできている。

 あんな話してたのに、二人とも普通にしてて怖いよね。現実感なさすぎておかしくなっちゃったのかな。

 彼女たちから、異臭どころではない腐臭を纏う粘つく湿度が広がった。そう感じるのは私だけかもしれない。別に何だっていいけど、望まないものにラッピングされていく息苦しさをどうしたらいいのか。凪いでいた身体中が波打っていく。友人と話したとき、真っ先に感じた無力感をおねえさんたちは知らない。仕方ない。そんなものを人に知らせる意味などないのだ。仕方ない。この大勢の人で溢れた場所を粘度がじわじわ侵食していく。仕方ない。

 体温が上がってゆくのを感じてその場を離れた。もう歩いて帰ろう。堂々と彼女らの前を横切り。避けて遠回りするのもバカらしい。淀みを裂くように空気を掻き乱して。息を飲む音が聞こえたが、さすがに気まずさで口が利けなくなってしまったのだろう、言葉はそこから聞こえなくなった。姿が見えなくなったらまた言うかもね。乾いているのは一体どちらだろう?

 暑い。私から生まれる湿度が視界を歪ませる。赦されないことをしているような気分になる。赦さないのはもちろん私だ。友人と会うのはこれが最後かもしれない。いつものように明確な目的を持たずに過ごした一日が、こんなふうに終わることを、私は赦せない。だけどそれは間違っている。これは私の物語ではない。

 風が吹いて、熱を攫っていった。これは私の物語ではなく、友人が選んだ過程のひとつだ。起こりうると分かっていても彼女はそうした。だから動じなかったし、私も変わらず接したのだ。誰かが無意識にくるんで纏めようとしても、その中に収まる気など毛頭ない。

 雑踏から離れるにつれ、滲んだ景色が元に戻っていく。何が変わるわけでもない。そう言い聞かせて、家までの長い道程を私は歩き続けた。

2023/2/25公開-2024/2/11修正