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開けない、開かない、開けたくない

 断捨離というわけではないけれど、身の回りの物を整理し始めていた。目の前のクローゼットには何年も放置している箱がいくつもある。大小さまざま、いざ開けてみたら空なんてこともあった。しっかりした作りだから捨てるのはもったいないと思ったのだろう。紙製だけど厚くて丈夫。蓋に紐が付いていて、ぱかっと開くと蓋の裏に鏡が貼り付けられている。

 少しだけ淀んだ空気を感じて、これは捨てたほうがいいな、と思った。こんなにちゃんとした物なのに、どうやって手に入れたのか記憶にない。掘り出した物は思い出と言えば思い出だけど、思い出せない思い出って何だろう。捨てる、捨てない、保留、と繰り返して、案外決断が速いななんて我ながら感心する。溜め込んだことは棚上げ。

 ふと気付くと箱に取り囲まれていた。自分で積み上げたのに何でこんなことになってるの? と不思議に思う。クローゼットは無限空間だったのだろうか。そんなわけない。もはやどう詰め込んでいたのか再現できないくらいの量が、堆く私を圧迫する。座っている目線より高い。

 今のところ捨てる山が一番大きく、保留は少ない。捨てない、はもっと少ない。ますます自分に疑問が湧く。要らない物ばかり仕舞っていたということだ、あまりにも無駄すぎる。日々過ごしていればそんなもの、という見方もできるけれど、会う人会う人に几帳面と言わしめるこの私が、こんなに無頓着でいられたとはいったいどういうことなのか。といっても箱は隙間がないくらいにきっちりはめ込まれていたから、やっぱり私の仕業なのだ。

 古ぼけた箱は捨ててもいい。中身だけ出して脇に置く。この木彫りのオルゴールは覚えがある。小学生のときに近所のおじさんがくれた物だ。おじさんが彫って、奥さんが色を塗って。細かくて綺麗な意匠に目を奪われていたら、じゃああげるよ、と二人は快く譲ってくれた。新しいのを作っているからいいよ、と言って。

 蓋を開けても音は鳴らなかった。ねじが空回りする。壊れているのだ。それも覚えている。これまた近所の悪ガキが、力任せに何度もめちゃくちゃに巻いたからだ。正しく巻けば良いものを、反対に巻いたり、止まっているのをさらに巻こうとしたり。あいつを家に入れた兄をぶん殴った記憶すらある。あそこまで感情的に怒り狂ったのは、後にも先にもあの一度きりだ。

 私の狂態はオルゴール夫妻の耳にも届いていたらしかったが、私は後ろめたさでその後二人の顔を見ることができなかった。悪いのは私じゃないのに、私が悪いような気になっていた。夫妻はそのうち新居に引っ越していなくなった。箱が目の届かない隅のほうに置かれていたのは、罪悪感から逃れたかったせいだろう。時を経てもなおその気持ちは鮮明に目の前にやってくる。兄、許すまじ。

 箱を開ける度に、記憶が遡っていく。上から下へ、地層をなぞるように過去を追い回す。楽しかった思い出の中に、いつも何かイヤなものが含まれている。あと少しで最後のひとつだ。泥のように纏わり付く鬱陶しさを再確認する、意味のない作業ももう終わり。

 くすんだ黄色い箱に手をかけた。この部屋で最古の物。ちゃんと覚えている。これは幼稚園の頃、誕生日に友達がくれた折り紙のメダル。幼いなりに出来が良いものだった。箱はその子のママが厚紙で作って、二人で色を塗ったと言っていた。友達は卒園と同時に消えてしまった。誰も何も説明してくれなかったけれど、普通に考えて引っ越したんだろうと思っていた。でも違った。

 今日は朝から写真を整理していた。家族のものが無造作に交ざり合って引き出しに放り込まれていたから、それぞれに分けておこうと思ったのだ。今でこそ画像で管理しているけれど、昔はまだフィルムも多かったし、その後はデジカメで撮って紙にプリントしていた。引き出しはいっぱいになっている。そこに無神経な兄が現れて、後ろから覗いてきてこう言った。
「連れ去りの子じゃん」

 一番上に置かれた写真の中で、友達と私がどんぐりを拾っていた。幼稚園の隣のお寺だ。二人で帽子に溜め込んで、こんなにどうするのと呆れられた。家には持って帰れず、どんぐりは幼稚園の庭の隅にこんもりと集められた。その時の写真。

 はあ? と振り返り、私は兄を睨み付けたまま動けない。
「だから、連れ去りの子でしょ。ばーさんに連れてかれて、どっかに落ちて死んだ」
 何その適当な説明。分かるけど分かりにくいよ、何だよそれ。知らない、聞いてない、なにそれ。無言で凍り付いた私と見詰め合って数秒、兄はしまった、と呟いた。
「お前には言うなって言われてた~……けど時効だよな? もう大人だもんな? な?」
 なんと癪に障る笑顔だろう。ぽんぽんと私の肩を叩き、冷蔵庫からペットボトルを取り出して去って行く。私の時だけが止まっている。ああ、もう、兄、何なんだよお前は。

 黙々と写真を片付けて、私は自室に戻った。そしてクローゼットを開けたのだ。最深部に眠る、あの箱を目指して。

 少し大きめの箱で周りを囲んでいたおかげで、件の箱は潰れてもいない。これにはイヤさなど微塵もない、護るべき思い出だった。もうどういう気分でいたらいいのか分からない。腹が立つし、モヤモヤもする。周りになのか、自分になのか、兄になのだけは間違いないけれど、どう表現したらいいのだろうこの感覚。

 気付けば母が私を呼んでいた。絞り出した返事の直後、開かれたドアの隙間から顔を出す。
「なーに、この箱……」
 箱と箱の間から私を覗き見て、ちょっと引いているようだった。私はそれには答えない。何? とだけ言うと、買い物行くけど要る物ある?と訊いてきた。私はないよ、と答えた。手の中のメダルが汗ばんでいく。母なら詳しいことが分かるだろうか。尋ねてみようかどうしようか、迷ってその手が空をさまよう。次の瞬間、母はあっけらかんとこう言った。
「あれっ、それ、めいちゃんの? 懐かしい~、元気にしてるかしらね」
 屈託のない母に、はい? と私は、間の抜けた声を上げた。

「めいちゃんよめいちゃん。仲良かったじゃない」「いや、分かってるけど。元気にしてる……?」
 困惑する私をよそに、母は笑ってメダルを掴み上げる。
「手先の器用な子だったよね、今どうしてるかしらねー」
 私の頭の中に、折り紙をすいすい折っていくめいちゃんの小さな手が浮かんでいた。私よりも小さな体で、誰よりも速く走り、誰よりも元気に笑い、誰よりも愛らしく話す。みんなに好かれていためいちゃん。

 母の話では、めいちゃんは卒園前に両親の離婚が決まり、めいちゃんママに引き取られることになっていたという。それを阻止しようと姑が孫のめいちゃんを攫い、追いかけたママと揉めているうちに、肝心のめいちゃんが土手でよろめき、そのまま川に転がり落ちたということだ。川自体は浅く怪我はなかったものの、小さな体で流れる川に落ちたことでめいちゃんは怯えきってしまい、しばらく外出できなくなった。

 それを、あのバカ兄は死んだと思い込んでいるらしい。そそっかしいわねあの子~、なんて母は笑うけれど、この胸の底に溜まりに溜まった澱のような不快感をどうしてくれるわけ? 子供の記憶だから仕方ないと済ますには、兄には粗相が多すぎる。本当に、兄、いったい何なんだよ。母が出て行った後しばらく放心していた私は、堪えていたものが突然弾け飛んだような感覚になって、手頃な空箱を手に立ち上がった。もう何でもいい、どうせ捨てる箱なんだから。それはオルゴールが入っていた箱だった。

 軽い箱を選んだのは妹なりの優しさだと思ってほしい。素手だったら私もダメージを食らうし。あんな奴のために痛い思いなんかしたくない。数々の兄の言動行動に振り回された場面が去来する。考えなしに人を巻き込む、その短絡さ。それを簡単に許す周りの人間たち。しょうがない、で流していた今までの自分。すべてに怒りが湧いていた。今の私はオルゴールを壊されたときの、あの時の衝動に突き動かされている。

 苛立ちのままドアをノックして、返事も聞かずに勢いよく押し開ける。その姿が見えたら、渾身の力で叩き付けてやろう。さあ、生涯二度目の憤怒を受けるがいい。そして己の無遠慮さを嘆くがいい。

 驚いた兄の顔を見た瞬間に、私は思いっきり、その箱を振りかぶった。突然の出来事に悶絶していたが知るものか。何が何だか分からないという顔をして、それすらも私を逆撫でする。何度も殴ってやりたかったが一度で勘弁してやった。そして呆然とした兄を放って、私は部屋に戻った。積み上がった箱を、乱暴に蹴り飛ばして。

 開いた箱は閉じていた扉をも開き、私の中に眠っていた生々しい感情を露わにした。それが良いことなのかそうでないのか、今はまだ判断できそうにない。