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繋がらない縁

 地面に連なる細い線で描かれた円の羅列に、眉を顰めたのは私だけではないはずだ。といってもその意味は恐らく異なる。これを不快に思った人の多くは「こんなところに落書きしやがって」と苛立ち、そうでない人はむしろ微笑ましく感じているだろう。懐かしさを湛えた子供の遊びとして、けんけんぱ、と呟きながら。

 しかしこれは違うのものだ。円はひたすら続いているが、不規則に乱れてもいる。それゆえにテンポよく飛び込みたくなる箇所もあるが、よくよく見ればめちゃくちゃだ。ただ道をふらふらとゆく、千鳥足の足跡のように。

 酔っ払いならまだいいかもしれない。いつかは酔いが覚めるのだから。脳裏には子供時代の記憶が蘇る。蝋石で延々と円を描いているその人物は、恐らく酒など飲まない。ごく普通に日常を過ごしていたかと思うと、ある日突然スイッチが入ったように円の虜になった。それから十余年、彼女は無心に地面に這いつくばっていた。

 近所の当時三十代の女性がおかしくなったのには理由がある。余所から見れば明確な、とは言い難いが、こうであろうという憶測は口々に語られていた。曰く、不妊治療に疲れ切ってしまったのだとか、昔の流産の影響だとか、付近の子が成長していく姿に堪えかねただとか。

 確かにその時期数年ほど、珍しく各所で出産が続いた。どこかしらから赤子の泣き声が聞こえてきたのも遠い話ではあるが、望んでも子に恵まれない境遇の人にとっては辛い日々だったかもしれない。気付けば舗装された通路には、円の道ができていた。

 それは彼女の家から始まって、私の家の前を通過し、通学路を経由した。日に日に伸びてゆく歪な道筋は、通る必要のない場所に寄り道をしながら、公園に辿り着く。その頃には家の前の円は消えてしまい、始まりを知らない者も現れていた。

 子供たちが居ない昼のうちに作業は行われ、休日は姿を見ない。避けているかのような行動に、まことしやかな噂が広まり出す。そうであろう、という余地を残しつつも、それが真実と確信したかのような話。けれども誰も、その円が何を指しているのか知り得ない。

 公園は円で埋め尽くされた。狂気を感じるその所業を、子供たちは慄くどころか面白がった。なぜか自然に消えていくまで放置され、それは見慣れた光景となってすぐに飽きられた。と同時に、やはり「こわい」と口にする層もいくらかは居たのだった。

 私は無意識にそれらを避けて歩いていた。怖いというより気味が悪い。幸いなことに車が通るど真ん中に描かれているため、大抵は踏む必要がなかった。しかし乱れているがゆえに、踏まざるを得ないときもある。人とすれ違う瞬間、ぼんやりしていると道の中央に追いやられてしまい、立ち止まるわけにもいかず、何度か思い切り踏みしめてしまった。

 それで困ることは何もない。平然と踏んでやればいい。ただの円には何の力もなく、靴の裏が汚れるというほどでもない。なのに初めて踏んだ瞬間は、してはいけないことをしてしまったような、得も言われぬ感覚になった。寄らず触らずかかわらない、という気持ちがそう思わせたのだろう。それ以降はあえて意識せず、と思っている時点で十分に意識してしまっているのだが、していない、と思い続けることで実際に気にならなくなった。

 途切れ途切れながら、円は消えては現れを繰り返す。私が土地を離れても、長期休みに戻ってくると家の前にはうっすら痕跡が残っていた。まさか一生続けるのだろうか、と思っていたが、いつの間にかそれらは消え去り、同時に目撃談も聞かれなくなる。五年ほど前のことだ。

 その頃、例の家に子供がやってきたという話を聞いた。妹が産んで育児放棄していた子を、姉である彼女が引き取ったのだという。妹は行方知れずだが、子供と彼女が仲良く歩いている姿を見かけたことがある。ということは例の話は本当だったのか、そんな簡単に正気に戻るのか、それともずっと正気だったのか、では何のためにあんなことをしていたのか。ただのご近所という存在では踏み込めない他所様の事情、真相は分からないままだ。

 駅から家に向かう途中で、通学路に差しかかった。角を曲がった途端目に入る真っ白な円の列。遠く遡った記憶が今に戻ってくる。これは蝋石ではなくチョークのようだ。母親からの電話で察してはいたものの、詳しくは何も聞いていない。人が悪いというかなんというか、特に気にもしないと思われたのだろうか。けれどもおかしいと思ったからこそ、わざわざ私に知らせたのだろう。だからといって何ができるわけでもないが。

 不妊を理由に離婚を迫られた姉が、実家に戻ったのはつい先日のこと。変わった様子もなく過ごしていたそうだが、なんかね、ちょっとね、来てもらえない? と母親からの歯切れの悪い誘いかた。それだけで気が滅入る。

 私は独身だし結婚する気はないし相手も居ないし、まして出産の予定もない。どーしたもんかと思いながら険しい表情を隠せないまま、実家の前に辿り着く。想像どおりとはいえさすがに少し身構えた。なぜなら円は、見事に我が家の前で止まっていたからだ。