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ここから先は異世界

 起こらないはずのちょっとした受難の話をしようと思う。理不尽と言えば理不尽、悔しいと言えばもちろん悔しいが、笑い話と言えなくもない。

 なんか壮絶だなあ、と素直な感想を述べたところで、それあなたが言います? と笑われてしまった。私は今頭から水浸しである。殴られるよりましじゃない? いやあ、どっちもきついな。のんきな会話をしながら、目の前で知り合い程度の男女が言い争っているのを眺める。女性が一方的に男性をポカポカと叩きまくっていて、ありとあらゆる罵声を浴びせ、男性も負けじと言い返していた。罵りのバリエーションからすると女性優勢、しかし暴力はいかんなあ。誰か止めてくれないだろうか。

 次第に息切れし始めた女性が手を止めたところで、男性はその手を掴んだ。体力の差が出たか。いいかげんにしろ、と言い捨てこちらを一瞥する。女性は肩で息をしながらも抵抗の姿勢を見せたが、男性に制されたと同時に自分の粗相にやっと思い至ったらしい。男性の目線を辿り、私を見て、瞬時に顔色を変えた。なるほど、話に聞いていたとおりの直情型。傍から見ていたら面白いだろうなあ。巻き込まれた私は大変迷惑です。

 女性が何かを言う前に男性は後で連絡します、と頭を下げた。女性の顔色がまた変わる。おいおい余計なことを言うんじゃないよ。え、いらない。と私は急いで言い放った。二人でちゃんと話し合ってください、と早口で付け足し。

 すみません、とまた頭を下げながら男性はそのまま去っていく。ちょっと、と女性はまだもがいていたが、引きずられるように強引に引っ張られていった。
「水ごめんね~!」
 女性の声がこだまする。周囲に爆笑が起こった。不覚にも私も笑ってしまった。隣の知らない人も笑っている。彼は彼女と一緒に現れたのだ。私とは面識がない。
「どうするんです?」
「どうって、帰ります」
「その格好で?」
「この格好で」
 頭から浴びせられたミネラルウォーターの空ボトルが転がっていた。拾うのも癪だったが放置もできない。キャップはどこだろうか、見当たらない。もー知らん。空ボトル片手に暑さから水浴びした人の如く、滴を垂らして歩き出す。公園内には寛いでいる人も走っている人も多く、私の災難は沢山の誰かに目撃された。それはもう恥ずかしいに尽きるが、開き直って行くしかない。

 冷たくないのー、と後ろから聞こえた。名も知らない男が追いかけて来る。隣に並んで、どこまで? と訊いてきた。家は近いが、答える義務はない。すぐです、とだけ返して歩き続けた。

 なんでこんなことに。と思いつつも、非日常なこの状況。どこかに楽しさも感じている。よくない。こういうところが面倒を引き寄せるのだ。男女間のトラブルなんて本来なら遠い世界の話。たまたまバイト仲間に話しやすい男子が居た。物怖じしない、人懐っこい、懐に入るのが巧い。こちらとしては一定の距離を保ったつもりだったが、まあ、上手に入り込まれてしまったとしか言えない。でなきゃ連絡先なんて絶対に教えない。教えなきゃならない状況に持って行かれてしまったのだ。これは痛恨。益々なんでこんなことに? という疑問が浮かんでくる。

 嫉妬深い彼女に、一体どういう話をしてたわけ? バイト帰りにちょっと話しながら歩いていただけだ。よく喋る男だわねとある種感心していたら、後ろからばしゃー。

 彼女の姿は数日前に初めて見た。バイト終わりに彼を迎えに来たと。挨拶したときから、何となく予感はしていたのだ。あの人の彼女には気を付けてね、と他のバイト仲間から忠告もされていた。しかし行動の早いこと。私の後ろ姿はそんなに浮気女(仮)に似ていたのだろうか。あー迷惑。

 それにしても彼氏を責めるために他の男と現れるとは。バイトの彼曰く浮気は誤解だそうだが、なんと言うか、よく分からない世界。大体この人いつまで付いてくるの? 横を見ると笑顔。風邪引かないようにねー、なんて言っている。
「家こっちなので」
 指差し角を曲がろうとすると、送りますよ、と言ってきた。いりません知らない人と言いたいのをぐっと堪える。そもそも本当は曲がらなくていい角だ。
「そのかっこで一人で平気なの?」
 全っ然平気。見て分からんかという目線を向けながら、じゃあしつれーしまーすと急ぎ足で去る。追いかけては来ない。見てるかどうかも知らない。振り返ってなるものか。これ以上の面倒はご免だ。

 暑さのおかげで髪は乾き始めている。ボサボサだけどしょうがない、どうせ汗でまた濡れる。あとは帰るだけ、すぐシャワーでも浴びよう。と思いながら、しなくていい遠回り。

 そして翌日もバイトである。

 これ昨日のお詫びです、とおしゃれな包装のお菓子をいただいた。彼女も謝っててこれ持って行けって。何とも憎めないお嬢さんで。ま、許してやらんこともない。
「本当は直接謝りたいって言ってたんだけど、今日は来れなくて」
「ハア? いらないいらない。やめてください」
「一度決めたら実行しないと気が済まないから……」
 だからなんだと言うのか。自分の彼女の手綱くらいしっかり握ってくれよ。呆れつつ念を押して、これ以上は本当に迷惑、と言い切った。

 なに、なんかあったの? と忠告してくれたもう一人のバイト仲間がやってくる。分かってそうな顔。そりゃそうでしょうね、だってこの人だもん浮気女(仮)。実際浮気してるのかは分からない。分からないが私は髪型を少し変えた。たかだかバイトに行くのに手間かけて髪を巻く日が来るなんて。やっぱ彼女こわーい! なんてなぜ笑っていられるのだ。良心の呵責とかないんかい。

 やっぱり、よく分からない世界。このやりきれなさ、どこにぶつけたらいいのやら。巻いた髪がお客さんに好評なのがせめてもの救い。

 以上がことの顛末。ただの笑い話とするには、しばらく時間がかかりそうだ。ていうか彼女が来ませんように。頼むよほんと。

2023/8/23公開-2024/2/11修正