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墓と死生観と自分

noteで「お墓」と検索すると、記事の検索結果が「約10,000件」と表示される。
人々の関心の高さがうかがえる。

検索で出てきた記事をざっとまとめると、だいたい以下のような内容のようである。
・道徳…先祖を大事にしよう、死者を大事にしよう などなど
・墓をどうするか…親の墓をどうするか、自分の墓はどうしてほしいか などなど
・ビジネス…仕事として墓にかかわる話題
・墓参…縁者の墓を訪ねるはなし
・観光としての墓…有名人、歴史上人物、古墳 などなど

すべてを読んだわけではないが、どうも死者の魂の「実体」をみて、それをどう扱うか、という論調が主流な気がする。
先祖の実体というか。

自分の専門は関東南部の盆行事のひとつである。
盆行事といっても家の中で行われるものではなく、家の外、家の門や道の脇や、畑の入り口で祀られる棚のようなものである。
地域によっては墓にも祀られる。
そこで墓にも関心を抱き、専門の盆行事の分布域外でも墓を探すようになった。

墓とか盆とかいうのは、いうまでもなく、すでに死んだ人物に対するものである。
「そんなものに関心があるのは人の親としてどうか」と罵られたことがある。
まだ死を扱うことのタブーが社会的に生きているのか、と宮田登の「黒不浄」を思い出しつつ、ああ、一般のひとにとってはそういう感覚なのか…とぼんやり罵られていた。

これも死者に「実体」を感じているひとつの例なのかもしれない。

どうも自分は死者とか霊とか魂とかの「実体」を感じられない。
身内に死者がないからというわけでなく、祖父母はすでに亡く、実父も亡くしている。
彼らとの思い出もたくさんある。
それにしてもだ。死者は死者である。
この感覚は、自分が学部で生物学科を出たことにも関連があるのか。
生物は種を問わず、死ぬ。そこに意味がないことも知っているし、死は別の種の栄養になることも知っている。
しかし生物学科出身ならば死者に「実体」を感じないのか、ということはわからない。

だからこそ、死者をどう扱うのかに関心を抱いたのかもしれない。

かつて大学院の指導教員に、建前でも研究意義を「死生観の解明」などにしたほうがいいと助言されたことがある。
自分は特に「死生観」に関心が高いわけでもなかったので戸惑った。
関心があるのは、死者をどう扱うか、という実見できる行為を収集しているうちに、その地域で死者をどう捉えているかということが見えてくるのではないか、というところだった。
現物の形状や扱いを調べていくことで、住民の意識が浮かび上がってくる、といかにも文化地理学的な関心なのである。
そこに魂の「実体」はなく、あくまでも「住民がどう捉えているのか」という意識なのである。
その意識をこの場合は「死生観」と名前をつければ、そうなのかもしれない。そういう意味では、自分の研究の中心は「死生観の解明」といえなくもない。

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