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責任の所在。

 数年前までの僕は、確信以外をことばにしないことで誠意を見せられると思っていた。
確信を持てないことは、「できる」とも「できない」とも言わない。抽象的な約束はしない。言語化できない気持ちは持たない。想像することしかできない他人の気持ちに勝手に寄り添わない。
自分の中で色々なルールがあって、それに沿って毎日生きてきた。話すことばを極限まで減らして、でも自分の言動には全て責任を取るつもりでいた。ふわふわとした余分な感情がどんどんそぎ落とされて、最適化されていった。
こういった経緯から、学生の頃の自分は、人を思い遣るということをほとんどしていなかったと思う。何かに誘われても「興味ないので。」「はやく帰りたいので。」と雑に断っていたし、相談事には自分の中の正論で返していた。誰かの人生の一部を口頭で説明されただけで分かった気になって、無責任に「大丈夫ですよ。」なんて言いたくなかった。
 この考え方が変わった一つ目のきっかけは、友人からのあることばだった。

「私が透羽を相談相手に選んでいるのは、一度全部受け入れてくれて、その上で自分の考えを伝えてくれるからだよ。」

 確かに受け入れていた。あなたがどんな考えを持っているか、何を欲しているのか、これからどうなりたいと思っているのか、あなたの人生を勝手に想像して、その全てを受け入れていた。どんなに共感できない価値観を持っていたとしても、あなたの新しい一面を知っただけに過ぎないし、僕にはそれを否定する権利も理由も無い。あなたの人生の一部を口頭で説明されただけの僕は、それを全て正面から受け入れた上で、もしも僕があなたとして生きるならと、本気で考えて確信を持って言えることだけ伝えていた。
 多分、僕が守ってきたルールは、驚くべき程間違えているわけではなかった。実際自分の言動の責任を取ることは出来ていた。

 何も話さないことを責任を取れたと捉えていいのか、疑問に思った日があった。「できる」とも「できない」とも言えない僕は、いったいそのことばでなんの責任を取れているんだろう。「ずっと友だちでいようね。」のことばに「そうですね。」とも返せない僕は、自分のルール以外の何を守れているんだろう。"ずっと"なんて存在しないし、未来の約束なんて守れるか分からない。どうしても、その友だちとずっと友だちでいられるという確信を持てなかった僕は、自分にも相手にも嘘を吐きたくなくて、「そうだといいですね。」と返した。

 何も話さないことは、何も責任を取る気がないことと同義だと思った。「そんな約束はしていないから。」「勝手に勘違いしただけ。」といくらでも逃げることが出来る、あまりにも無責任な甘えだった。本当に責任を取ろうと思うなら、「ずっと友だちでいられるかは分からないけど、そうありたいと思うし、あなたと友だちでいられるように努力する。」と、きっと返すべきだと思ったし、そのことばを全力で守るべきだった。
 自分にも相手にも常に誠実でいなければいけないという僕の考え方は、かなりの頻度で自分の首を絞めてくるものだけど、それでも嘘は吐きたくない。
 何かを守るということは何かを捨てるということで、たまたまそれが僕自身だっただけだ。


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