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物語とか推しとか救いとか(雑文)

最近好きになるキャラクターや物語の傾向に一貫性が出てきていることに気づいた。
考えてみると昔は自分にないものを持つ人を好きになっていた気がするんだけど、今は完全に自分に似た要素を持つ人を好きになってる。
これが作品に救いを求めるということんだろうか……
救いというと仰々しく聞こえるけど、例えば冷たいものを食べすぎてお腹が痛い時に祈るのも死の間際に祈るのも同じ救いを求める行為なので程度は様々です。
単純に私が救いという言葉を好きだからこの言葉を使っています。
ちなみに無宗教なので祈る相手はいません。
(ただしアニミズム的な考え方が強かったりして、文化として神道・仏教的な感覚は強く根付いてると思います)

例えば子供の頃は手塚国光が好きだったり三村信史をかっこいいと思ったりしていたのだけど、それは今私が持つ「推す」みたいな熱狂性はなくてもっと純粋な憧れだった気がする。

最初に私が自分という存在を重ねた作品は本垢のほうのnote(プロフィールから飛べます)でも語っている「アイヴォリー」という児童文学だと思う。小学校の図書室にあって、何度も何度も本当に何度も繰り返し借りて読んだ。
その後、中学で病気発覚入院いじめ不登校の4連コンボを決めた頃、ひょんなきっかけで幼馴染のお母さんから貸してもらったBANANA FISHから吉田秋生先生の漫画にどハマりして、過去の作品を読み漁るようになったのも大きな救いだった。
あれは創作する私にとっても漫画ファンとしての私としても、かなり大きなターニングポイントだったと思う。
彼女の作品では父親を乗り越えるべき存在として描かれていることがとにかく多くて、当時の私にも(というか今も)それはずっと私という存在に重くのしかかっていてずっと自由になりたいと思っていた。
そしてずっと「普通」に対する憧れがものすごくあった。
だから共感せずにいられなかった。
私は多分アッシュという人間に自分を重ねていた。

物語は孤独な人間でも味わえるからいい。
もし周囲に人がいなくても私たちは勝手に誰かに共感して、勝手に癒されて、勝手に自分を慰められる。物語にはそういう側面がある。

私が何かを推す時は、多分その感情と直結している。
自分の在り方を投影しながらそのキャラクター自身もめちゃくちゃ好きだから、この感情ってなんなんだろうと自分で戸惑うことすらある。
自己肯定感がすごく低いからこうすることで自己を愛そうと努力しているとか……? 
人の推し方って人それぞれだから興味があります。なんで「推してる」人は「その人を推して」いて、「どんな推し方」をしてるんでしょうか。
でも、みんな推しが活躍したら自分のことのように嬉しいだろうし&自分の応援の甲斐があったなと思うだろうし、推しが悲しかったら悲しいだろうし、相手が現実の人でも、架空の人でも、「無いけど在るように思う相互関係性」みたいな幻想はある気がします。
(とはいえ性癖にもよるな、、特に二次元だと苦しませたい人も中にはいるだろうから)


消費することと創り出すことでは私の中では全く姿勢が異なるので、経験を乗せることはあっても自分自身を自分の創作のキャラクターに乗せることはあまりしてきていないし、むしろ「描き手の私はそう思わないけどあなた(キャラクター)はそう思うんだね」というようなこともままあるんですが、
読む側としては作者の存在が乗っかった漫画を読むのが大好きなので、もし私が同じように創作したらどうなるのかなっていうのはちょっと気になるところです。
一度だけ企画したことはあるんですが即没でした。
実際にやったとして私にとってそれは実質的な公開セラピーな気がする。いつかやってみたいです。


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