いつか誰かが歌う詩#8
「あーっ、もう!」
彼女がくしゃくしゃと丸めた紙をぽいっと真上に投げた。
彼女の後ろでそれを眺めていたぼくは、放り投げられた紙の行く末を目で追って、
「あたっ」
彼女の頭の上に当たるところまでそれを見守ってから、ぼくはまた読みかけの漫画へ目を落とす。
毎度似たような、いや……ほとんど同じ光景なのだからぼくは何も言わないでおくと、
「ねえ」
彼女は回転する椅子をくるりと回転させて、ぼくの方へ向く。
ぼくは、んー? と、今読んでいる漫画が面白くて彼女に構う気はないので生返事をしておく。それが気に入らなかったのか、彼女はもう一度呼んだ。
「ねえってば」
んー? と、先ほどと同じ返事をすると、
「えいやっ」
丸められた紙がぼくの顔に当たった。
やれやれとぼくはずれた眼鏡をかけ直して、ページ数だけを覚えて漫画を閉じる。
仕方なく、なにと尋ねると、
「傑作がうまれないのよ」
彼女はそう言った。
彼女の言葉はゆっくりぼくに届いた。この部屋の真っ白いカーテンを小さく揺らすそよ風と同じ速度だと、ぼくは思った。
傑作って、君が今書いている小説のこと、とぼくは彼女の机に広げられた原稿用紙を指さして言う。
「そう。傑作がうまれないのよ」
彼女はまた同じことをいう。
傑作ってそういうものなのだろうかと少し不思議に思うも、たびたび不可思議な事を口にするのが彼女なのだから、特に気にしない。
君にとってどうしたらそれは傑作になり得るの?
「さあ?」
くるーんと彼女は椅子を回転させた。この星の衛星——月みたいに、彼女の周りを髪がついていくようにまわった。
じゃあ、この漫画より面白い話が書けたらそれは傑作?
「違うね」
彼女は笑った。その漫画面白いよね、と付け加えてまた笑う。
「わたしね、思うのよ」
彼女はぼくと視線を外して、この部屋の角をじっと見つめながら言う。
「この星の言語では私にとって傑作なんてうまれないってこと」
また不可思議な事をいう。
彼女は人差し指を折り曲げて、下唇の端に置く。ぼくが知る彼女のよくやる癖だ。
「日本語でも英語でもフランス語でも、アゼルバイジャン語だってペルシア語でだって、この物語が傑作にはなり得ないのよ」
アゼルバイジャン語なんてあるんだ、と妙なところに感心してしまった。
「だってね、わたしはわたしが見たい世界を見ているの。それは夢のような空想のような。そういうものを、人間が編み出した言語では伝えられないよ」
人間が編み出した言語……。
「わたしたちが使う言語はさ、コミュニケーションのためにつくられた言語でしょう? 人と人とが会話をするために、意思疎通を図るためにつくった」
それが、何か問題なのかな?
「おおアリだよ。でっかいアリさんだよ」
彼女が手で触覚をつくってアリの物まねをしている。多分。「似てるでしょ?」なんて彼女が不機嫌そうな顔をしているので、似ている似ていると二回言ったら、君はわたしがアリに見えるのかそうかそうかと、不機嫌そうな顔のまま二回頷いた。
君が言ったんじゃないかという言葉はぐっと飲みこんで、ぼくは結局何が言いたいのと聞く。
「だから、言語が必要なのよ」
意味が分からない。
「このわたしの世界を伝えるための言語。空想言語とか、思想言語なんて名前がいいな。わたしの見ている夢が百パーセント伝わる言語。まずはそれがないとこの作品は傑作にはなり得ない」
彼女は言うだけ言って満足したのか、また椅子を回転させて机に向き直る。彼女の華奢な背中は少し嬉しそうに揺れていた。
まあでも。とぼくはその彼女の背中と、この部屋と、そして白いカーテンの向こうに覗く世界を見つめ思う。
今この時間を形作る色や、ぼくと彼女の息遣いの柔らかい感触、そういったものを、確かにぼくが知る言語では到底表せないのかもしれない。
意外と彼女は正しいことを言っているかもしれない。
ぼくは閉じていた読みかけの漫画を開いて読む。
でも、このページに書かれた『わたしはきみをまもるよ』なんて心恥ずかしいセリフは、それでもぼくの感情を揺さぶるのに十分だ。
ぼくらが使う言語だって、案外捨てたものじゃない。
「ああ、そうだそうだ」
ふと彼女が顔を横に向ける。けれど視線は顔の向きのまま。彼女の後ろに位置するぼくとは目は合わない。
「そういえば今日、君をわたしの部屋に呼んだ理由だけどさ」
酸素を二回ほど交換する時間を経てから口を開く。
「わたし、君と付き合おうと思って。君に好きだって言いたかったのよ。ふふっ、好きだよ」
彼女は笑った。
彼女の言葉は、誰にも何にも邪魔されることなく真っ直ぐ届いた。
「君、顔赤いよ」
誰のせいだよまったく。
あーあ、君のせいでこの漫画のセリフは一瞬にしてどうでもよいものになってしまった。
「さて、返事をきこうかな。わたし達がコミュニケーションできる、言語でね」
小さな微笑み。空気を震わす彼女の息遣いが世界に溶けていく。
十分だ。
ぼくはぼくの気持ちを伝えられるこの言語だけで十分だと、そう思った。
ありがとう。そして——
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