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いつか誰かが歌う詩#12

「ねえ、もしもわたしが自らの命を殺めることを素晴らしく賞賛する小説を書いたら……君はそうする?」

片手で世界を握りつぶすような物騒なことを、なんてことない微笑みと共に彼女は囁いた。

「どうよ?」

ずいっと、たばこ一本分の距離を、彼女は顔をぼくに近づける。
どうよと言われても……ぼくは彼女がまた馬鹿なことを言いだしたとしか思わなかった。

「君はきっと死んじゃうよ。ね?」

なんの自信となんの根拠と、なんの想いがあって彼女はこう口をつくのだろう。別に向ける必要のない視線を、ちらと彼女に向けてみる。そこに心底楽しそうな彼女の顔があった。
それはまるで世界をスキップして歩むような、そんな気随さが。

「君は、わたしの後を追う?」

そんなのは分からないし、多分きっとそうはしないだろうけど、一つ言えることがあった。
ぼくは彼女に向き直ると、彼女は「お?」という反応を餌を待つ犬のような表情をして待つ。
だからぼくはもったいぶらず、君は小説なんて一度も書いたことないじゃないか——と言った。

「……たしかに。君、冴えてるね」

こんなもので冴えてるなら、フェルマーの最終定理も3秒で理解できそうだ。
彼女は何がおかしいのか、あはははっと笑って、ぼくの肩と自らの肩をわざわざぶつけながら隣に座る。
柔らかい痛みと女の子の匂いがした。

「じゃあ小説書いてみるよ。君、絶対読んでよね。いい?」

はいはい読む読む、とぼくは投げやりな返事をする。

「それは読まない人の返事だよ。はっきり返事しなさい」

読みます。

「よろしい」

彼女は嬉しそうに笑った。
そんな笑顔のまま、彼女はこれまた楽しそうに、買ってもらったばかりのおもちゃを自慢する子供のようなそんな笑顔で口を開く。

「ねえ、もしもわたしが、恋は素晴らしいよ、なーんて小説を書いたら……君は誰かに恋をするかな?」

思わず目を反らしたくなるほどの彼女の顔がすぐ隣に横たわっていた。
小説なんて、書いたことないくせに。そう呟く。
まったくため息がでる。

「それもそうだね」

それもそうだ。

「小説、書いてみようかな」

彼女の優しい声が空気に溶けていく。
隣に座る、彼女がこの世界に生きる音や、肩が触れあう面映ゆい色、そういう触れれば壊れそうで今にも消えてしまいそうなそんな小さな世界が、ぼくと彼女が並ぶ短い空間にそっと置かれていた。
だから——
書いてみなよ、小説。
ぼくはそう言う。

「……ふふっ、しょうがないね」

きっと、恋なんてものをぼくは理解できなくて、それでいて彼女もきっとそんなものを理解していないのだけれど。
ぼくらは多分、この小さな世界が好きなんだと思う。

「君に一番に読ませてあげるよ」

読むのはぼくだけでいいからね。

「君は贅沢だなあ」

彼女は立ち上がった。
何かに宣戦布告するように、世界を見下ろすように、ぼくを見る。

「小説って、どう書くの?」

知らないよ、そんなもの。
早くも暗礁に乗り上げる彼女は微笑ましく、ぼくはやれやれと首を振って立ち上がる。
とりあえず、コーヒーでも淹れようか。

「うんっ、そうしよう。あ、ちょっと高級なチョコもあるけど……食べる?」

いただく、とぼくは頷く。

「いいよ、用意してくる」

ぱたぱたと駆けていく彼女の背中は、いったいどれほどの何かを背負っているのだろう。
軽やかに世界をスキップする彼女の側に、いったいどれほどの強さで在れば、まだ側にいられるのだろう。
そんなことは、分からなくていいと思った。

それと……

「あったあった、このチョコ高いけど美味しくてさ……」

別に小説なんて書けなくていい、そうとも思った。

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