いつか誰かが歌う詩#13
「五時の空気はもっとこう……夕暮れの味がしてたじゃない?」
会社をでて彼女がうーんと伸びをした。
伸ばした腕につられるように真白いブラウスがシワを寄せる。
夕暮れの味? とぼくは思わず横を向いて彼女に尋ねた。
「そ。少し前までは五時なんて夕方そのものだったのに、今はもうこの時間でも明るくなっちゃってる。五時っていう時間はもっと夕方であってほしいなって」
ふーん、それで夕暮れの味ね。
たしかに太陽はまだ高くて、地平線に沈んでいくにはまだ幾分かの時間があるよう思える。
いつのまにか日照時間が長くなっていた。
いつのまにか夏が来ようとしていた。
「もうすぐ夏だね」
彼女が心を読んだかのようにそう言った。いや、この場合だれでも同じことを思うか、とぼくは首を横に振る。
「どうかした?」
いいやなにも、とまた首を横に振ってみせた。
「ふーん、まあいいや。それよりもせっかく定時であがれたことだし飲みにいこうよ」
君お酒弱いじゃん。
「まあね。でも私お酒の席は好きなのよ」
飲めないけどね、とさらに付け足して彼女はくるんと回った。退社と同時に乱暴に脱いで手に持っていたジャケットが広がる。通りゆく人々が彼女をちらと一瞥していった。
彼女はそんな視線をまるで気にしていないようで、どうして本人でないぼくが視線を気にしなくてはいけない、と半ば腹を立てながら数歩先を歩く彼女の横に並ぶ。
「君、なんか顔こわいよ。今日はいかない?」
いく。それと顔は怖くない。
「怖いって……ふふ、まあいいや」
彼女は何がそんな笑えるのか、ふわっと笑ってまたぼくの数歩先をスキップでもするかのように歩いていく。
果たして彼女はこれから飲みにいくのが楽しみで先を行くのか、ぼくの隣を歩くのが嫌で先を行くのか。
後者ならこうしてぼくを飲みには誘わないかと、いらぬことを考えて彼女と距離ができる。
「遅いよ、きみ」
数歩先で彼女が立ち止まって振り向いていた。
完全な夏ではないといえど、気温はそれなりに高く、じんわりとかいた汗が前髪を湿らせておでこに張り付けている。そんな彼女を見ながらぼくは追いつく。
「ほらほら、せっかくの定時退社がもったいない」
追いついたぼくに彼女は言う。
君が早すぎるだけだよ。それともぼくの隣を歩くのがそんなに嫌だったりする?
「嫌なんてことはないよ」
なんだか含みのある言い方だ。
でもどうやら嬉しいわけでもないみたいだ、と自嘲気味に笑ってみせる。
そうすると彼女は何も言わずただ微笑んだ。
「あーあ、やっぱり五時はもっと夕暮れの味がしてくれないとね。それと、模様」
にひひと笑いながら彼女は空を見上げた。
その言葉の意味はさっぱり分からなかったが、ぼくは彼女の横顔を少し見てから、つられるように空を見てみる。
まだまだ明るい、それでも空の端に夕暮れの気配を見つけて、なんとなくそれを彼女に言おうと向き直ると、
「おっ」
彼女と目が合った。
なんとなく、ぼくらは同じことを言おうとしていると思った。
そしてなんとなく、それを口にだしてしまってはそれら一切がたちまち安っぽくなる気がして、ぼくは、そういえばお店どうする? と尋ねた。
彼女は少しだけ目を見開いて、それで少しだけ笑ってから、「そうだね、どうしようか」と考えだす。
これでいい、これでいいのだ。
何が良いのかはさっぱり分からないけれど、今のぼくと彼女にとってこれはきっと正解なんだ。
「あっ……と、すみません」
彼女が短く声をあげて通り過ぎていくスーツの男性にぺこりと頭を下げる。向こうも小さく頭を下げていた。どうやら軽くぶつかったらしい。
ふらついた彼女の肩が一瞬だけぼくに当たった。
「帰宅ラッシュだねえ。やー、人が多い人が多い。それでお店なんだけどさ」
なんてことはないように彼女は話を続ける。
駅へ近づくに連れ人が増える。正直お店なんてどこでもいい。
なるほど、とぼくの横でどうしようかどうしようかと喋り続ける彼女をふと思った。
もう少し夕方であれば、ぼくはきっと彼女のその華奢な手を握って隣を歩けたはずなのに、などと思う。
「どうしたの?」
彼女がぼくを見る。
なんでも、と答える。それでお店は決めた?
「ううん、まだ。君はどこかいい場所知ってる?」
知らないから、前と同じ場所でもいいんじゃないかな。
「ふふ、それもそうだねっ」
彼女が楽し気に一歩を踏み出す。
ぼくもまた、彼女と同じ歩幅で踏み出す。
もっと空が茜色に染まって、世界がもっともっと不鮮明になっていけば、きっと彼女の手を握れたのに。そして臆病で恥ずかしがり屋のぼくの顔もきっと隠してくれたはずなのに。
「さー、今日は飲むぞー!」
カクテル一杯で顔を真っ赤にするような彼女が声をあげる。
そんな彼女の声を傍で聞いてぼくは——
五時はもっと、夕暮れの味がしてほしいと、そう思った。
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