いつか誰かが歌う詩#9
「相変わらず、君の家の冷蔵庫の色は変わらないねえ」
この家の住人でもなんでもない彼女が、ぼくより先に扉を開けて家に入る。ぼくが玄関で靴を脱いでいる間に、彼女はあっという間に台所へ移動して冷蔵庫を開けていた。
「ねえねえ、カルピスちょうだい」
そう言いながら彼女はぼくの了承を聞く前にカルピスを冷蔵庫から取り出して、グラスをふたつ用意していた。
良いって言ってないんだけど。後からぼくがやれやれと台所へ顔をだすと、彼女は、まあまあと言って笑った。
リビングの机にグラスがふたつ置かれる。白いレースのカーテンの隙間から差し込む陽光に照らされ輝く。不規則な光の影を机に落として、夏はそこにあった。
「いやはや、喉が渇いた渇いた」
彼女がカルピスをグラスへそそぐ。カルピスの容器をつかむ彼女の細い指に僅かに力が加えられているのを見つめながらぼくは床へ腰を降ろした。学生鞄はソファへ投げるように置くと、彼女は「あ、私のもそっちに置いておいて」と床に置かれた鞄を指さす。
まったく、ひとの家なのに図々しいやつと思いながらぼくは彼女の鞄を拾う。なんでもないシンプルな鞄につけられたキーホルダーが、今ぼくが抱える葛藤よりも小さく揺れた。
「はい、できあがり」
彼女がなみなみ注がれたグラスをぼくによこす。それをこぼさないように受け取ってぼくは乾いた喉へそれを流し込んだ。
くっくっ、というカルピスが喉を通る音と、ぷはぁという彼女の透明な息遣いが部屋に満ちてそして溶ける。
一息ついてグラスをテーブルへ置く。木製のテーブルは、ごと、という音をたてた。外で鳴く無数の蝉の声よりもそれはやけにぼくの耳に届いた。
ねえさっきのはなに、とぼくはその音の間隙をついて声を漏らす。
「さっきの?」
彼女は首を傾げた。
そう、冷蔵庫の色がなんとかというやつ、というと彼女は、
「あー、あれねあれね」
と可笑しそうに笑った。
「ほら、私ってよく君の家に来るじゃない?」
いやというほどね。
「あ、そこは嬉しい事にって言ってよ。まあいいや。で、昔から幾度となく君の家に来てさ、勝手に冷蔵庫漁らしてもらってるけど……」
法律的観点から見れば犯罪ではないのかと思慮を巡らすぼくを気にすることなく彼女は楽しそうに笑う。
まあ、実際ぼくの母親も容認しているし、なんなら彼女の家は隣だし、昔からこうだし今更何も言うことはないけれど。
「それでさ、君の家の冷蔵庫の中は、いつも同じ色だなあって、不意に思ってさ」
同じ色?
「そう。君はオレンジジュースが好きでしょう? だから君のお母さんはオレンジジュースを買ってきてくれていっつも冷蔵庫に入ってるし、冷蔵庫の上には君のお父さんが好きな納豆が絶対あるし、それに梅干しをいつもあるね。他には弟君が好きな明太子とかもだいたいある」
これまた楽しそうに彼女は笑う。
「冷蔵庫の扉を開けたところには奥からわさび、からし、マスタードって入ってる。うんうん、間違いない」
なんでそんなこと知ってるんだよ、とぼくがあきれると彼女は「ほぼ毎日見てるからね」と目を細める。
「ほら、そうやって冷蔵庫の中の色は決まってるのよ。うちの家も、もちろん君の家とは違うけど、だいたいいつも同じ色をしてる。それでさ……」
彼女が遠く空を見た。
「これから、君の家の冷蔵庫は何色になるだろうと思って」
彼女がグラスを指で小さく弾く。ガラスの細く真っ直ぐな音が響いた。
ぼくの家って……。
「一人暮らし、するんでしょう? 来年から。来年の、春から」
……。
それは……まだ決まってない。
グラスの側面を水滴が滑る。
「君なら受かるよ、君だもの。……遠くなるね」
ありがとう、と言えばよかったのだろうか。頑張るよ、とでも言えばよかったのだろうか。脳内を逡巡した言葉たちはどれもかたちとなって世界に木霊することはなかった。
「だから、君が一人暮らしをしたら、君の家の冷蔵庫はどんな色になるんだろうって思って。なんか、そう思っちゃって」
へへっと、重い口端を苦しそうにあげた。
「なんだか、今年は人生で一番つまらない夏になりそう」
ぼくはグラスを口に運んだ。
目を逸らす彼女の横顔。はらりと垂れる後れ毛が、艶やかになびく。
胸のふくらみで僅かに曲線を描く彼女の真っ白いセーラー服も、無雑作に投げ出された素足も、グラスの向こうで歪んで見える彼女の夏の顔も、もう見れないかもしれないという不安めいた後悔のような、そんなものが心に明滅する。
「君はさ……」
オレンジ色かな。
「え……?」
オレンジジュースはきっと大量に買い込む。コーヒーも好きだからきっとそれも常備してる。食べ物はどうだろう、分からない。でもきっと、この家の冷蔵庫と大して変わらない色になると思う。
「ふふっ、そうかもね」
彼女もグラスに口をつけた。僅かに残っていたカルピスが消えていく。
確かめにこればいいよ。いつでも、遠いけど。
「ほんとだよ、遠いよ。うん、でもいくよ」
コトリとグラスを置いて彼女は、う~んと伸びをした。
そしてだらりと下げて、ふぅと息をはいてから、よいしょとゆっくり立ち上がる。
「じゃ、そろそろいくね」
べつに、まだいていいけど。
「ふふっ、そうもいかないでしょう」
彼女はそういってはにかんで、鞄を持った。
「おたがい、世界で一番つまらない夏休み、過ごそうね」
彼女は扉を開けてでていった。靴をとんとんと履く音と玄関の扉を開ける音だけが鳴る。
静かになったリビングで一人、ぼくは蝉の声を聴いていた。
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