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いつか誰かが歌う詩#5

「この世界の音、聴いたことある?」

彼女は歩きながら目をそっと閉じる。耳を澄ませているようだ。
ぼくは、ないかなと答えると彼女は、

「聴いてごらんよ」

とぼくの服の裾を引っ張る。
ぼくも彼女の真似をして目を閉じた。目を閉じると気にならなかった音がよく聞こえてくる。
遠くで走る電車のジョイント音や、サイレンの音。
木々を揺らす初夏の風と、石ころを蹴飛ばす音。
世界は音に満ちあふれていて、どれも面白かった。

「どう、聞こえた?世界の音」

しかし彼女の言う世界の音というのはよくわからなかった。どれも結局何かの音で、そのどれもが世界の音ではない。これ全てを世界の音というのなら、まだわかるけれど。

「世界の音は、君には聴こえないけどね。本当は」

彼女が笑う。少しの段差で躓きかけた彼女がぼくの服をぎゅっと引っ張って、「おっとっと」と声をあげてまた笑った。

「例えば太陽の光る音はそれに近いかもしれない。雲の流れる音もそう。花びらの落ちる音もそうだね」

彼女の言っていることはよくわからなくて、ぼくは苦笑いをした。

「ふふ、君が今笑った音もそう。世界の音」

目を閉じたままの彼女はそう言う。

「ほらわたし、目は見えないから。世界の音を聴いて、生きてるんだよ。どうだ?君にはできるかな」

もちろん無理だとぼくは言った。「そうでしょう。そうでしょう」と彼女はぼくの指と自らの指を絡めてくる。

「あ、君は今、ドキリと照れたね?音で分かるよ」

なんという人だ。ぼくは感心する。だから正直に、そうだとぼくは言った。
目が見えなくても、彼女にはなんでも分かるらしい。

「そんなことはない」

まるで心を読んだように彼女は言う。

「目が見えないと不便だよ。例えば、君の唇の位置が分からない。キスができないじゃないか」

お安いごようだとぼくは彼女へ口づけをした。多分、恋の音がした。

「綺麗な音」

彼女はそれだけ言って、ぼくの手をひいて歩き始める。
全てを知っているような世界そのものの君も、知らないことが一つあるとすれば
その顔がほんのり赤らんでいるのは、きっと——ぼくだけが見えている。

木漏れ日


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