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いつか誰かが歌う詩#11

「ふむ、読書は良い。良いものだ」

彼女は眼鏡をくいとあげながら微笑んだ。
レンズの向こうで僅かに目を細める仕草に、ぼくはふーんと頷いた。

台所の蛇口から一粒、水滴がシンクに落ちる音がした。
夏を纏いはじめた世界の僅かな涼けさを求めるように、半開きにした窓からは小さな風と、どこか遠くで人が生きる音が聞こえてくる。

「君もたまには読書をしたらいい」

なんて彼女は、本から顔はあげずにそう言う。
今はいいよ、と言うと彼女は「もったいないな」といってページをめくった。

「うむ、よかった」

感想なのだろうか、高山の頂上の酸素のように薄い感想を述べて彼女は立ち上がる。立ち上がると同時に「他にはないかな?」と呟いた。
ぼくに聞いているのだろう。

「コーヒーを淹れてくる」

彼女はそのまま台所へ行った。ぼくはやれやれと首を振って、座っていたソファから立ち上がる。そして本棚の前へいって悩む。
木製の本棚の色と紙の匂い。こういうのも、彼女には知ってほしいと思う。

「コーヒーはいったぞ」

やがて彼女が戻ってきた。両手にコーヒーの入ったカップ。ことり、とテーブルへ置いて彼女はうーんと腕を伸ばした。ぼくは本棚から本を一冊抜いて彼女の前へ置く。

「なるほど」

なにがなるほど、なのだろうか。その言葉の意味はぼくには全く分からないけれど、彼女は嬉しそうに微笑んで本の表紙を撫でた。表紙を滑る彼女の指先をぼくは見つめて、淹れてくれたコーヒーを一口飲む。
あちっ。

「……君は猫舌だという自覚があるくせに、なぜそう早く飲みたがる」

呆れた顔を浮かばせながら彼女がゆっくり自分のカップを持ち上げた。
揺れる湯気が彼女の眼鏡を曇らす。真っ白になったレンズの向こうで彼女は果たして何を見ているのだろうか。考えても仕方がないことをぼくは考えて、彼女に、まっしろだと笑ってみせた。

「眼鏡はすぐに曇りたがる。君みたいだ」

彼女は眼鏡をはずしてテーブルへ置いた。やっぱり眼鏡をしているのとしていないのでは印象ががらりと変わる。
雲ったレンズがゆっくり晴れていくのと同じ速さで彼女はコーヒーを口へ運んだ。

「あちっ」

彼女もまた、猫舌である。

「……にがっ」

そして彼女は、コーヒーが苦手である。

ミルクと砂糖、買ってあるけど。といっても彼女は睨むようにぼくをみて、目で「そんなものはいらん」と訴えてきた。
君は無茶を承知で、なぜそう無理をしたがる。とぼくは彼女の先ほどの言葉を真似て言うと、

「無理ではない」

とやや強がった返答がきた。彼女は、ふぅと息をはいて長い髪を耳にかける。
君がかっこつけたがるのは、ぼくは知っているけれど。

「無理ではない」

もう一度彼女は言った。綺麗な声だった。

「私は別にコーヒーが好きなわけじゃない。熱いのが好きなわけじゃない。この本だって、読書だって好きなわけじゃない。ただ、それは少し前の私の話で、今だって好きではないが、好きでいたい」

彼女はコーヒーに口づけをするように、ふぅと息をはいて湯気を乱れさす。
そのままカップには口をつけずにまたテーブルへ置いた。

「好きなひとの好きなものは、好きでいたいじゃないか」

彼女の言葉は、短く美しい歌だと思った。
そういうものなのだろうか。
ぼくは不思議に思いながら、ソファに置きっぱなしにしたギターを手に取る。ピンと張られ、指先が少し触れればこの世界を満たす空気を震わすそんなものを、ぼくは手に取る。

「それ」

彼女がギターを指さした。
ぼくは彼女を一瞥して、ギターの弦を軽くはじく。なんの音かは知らないけれど音がでた。たった一つ音でこの部屋の色は変わった。

「君が今楽しそうに弾いているギター。私のだけれどな」

にひひと、彼女は含んだ笑い方をした。
それから片手でコーヒーカップを手に取って、もう片方の手で本のページをペラペラとめくる。
ぼくもギターを抱えながら、コーヒーカップを口に近づけた。

指先からは、鉄の匂いがした。

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