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レヴィナスの読み方

ヴィナスの読み方

絶対的に他なるもの=他者=テクストを自我と同じ度量衡をもって図るのではなく、既知に還元することを自制し、それゆえに謎から出来事に接近していく知の向き合い方と、レヴィナスの欲望を欲望することで開かれる第三者への歓待

客観とは、他我の集合からなる制度的な虚構

客観性という度量衡は共感される前提に立脚するから主観的自我の度量衡でしかない。

ミステリアスな人の魅力とは

それは、ゲームルール、師弟関係、大人と子供の関係に似ている。規則性の謎が提示されることによって、彼はどうしたいのかという子供のディスクールが発生する。その時点で私は彼によって、私が知らないものを告知されることとなり、それを知ろうと相手の欲望にフォーカスをあてる。そして、彼が何をしても、私はそれを想像の内に連関付ける。つまり、彼が何をしても私は許すこととなる、なぜなら彼は彼を他者として、鏡像的な感情移入が出来ない人と表象されるからである。よって、わたしは彼に対して圧倒的な遅れを手にする。弟子とは、自分が子供の位置にいることに気づいた子供であり、敗者とは、自分が子供の位置にいることに気づかないこどものことである。


謎とは、シニフィアンの入れ替えによってしか励起されないもの

謎とは、痕跡、外傷、前言撤回であり、出現すると同時に既に抹消されているものである。

現象とは、己を顕示することなしに顕示する、私を常に先行する何かへと、私を欲望させるものを誇らしげにした表現、

なぜ、二度語ることが神の言葉となり、言語化されない記憶=トラウマを語る方法となるのか。

それは、ブランショが「複数のパロール」と名付けた、私が語られたことが他者によってもう一度繰り返され、それによってその本質的な差異のうちに、私によっては担いきれない何か(謎)が出現するからである


ユダヤ教の師弟関係と

弟子と師が同じタルムードの教えを覗き込んで、弟子と師の知が、輻輳、前言撤回されることによって生まれる謎が始原的なモーセの欲望を賦活させ、神の言葉を賦活させるからである。

対話とは、本質的に三者協議なのであり、私と他者の同じであるが同じでないものから生まれる謎=言語化されない記憶と、その謎を相同的に感覚したであろう=外部性の第三者=始原的な欲望者を歓待する場のことである。


なぜ、鏡像的な認知、他我、独学者は呪われているのか。

それは、彼の努力が自分が既に知っていることを他者のパロールのうちに再発見する事しかできないから。


知とは
本質的に存在の手前に存在する一つの仕方なのである。それは出来事にかかわり合わないという権能を保持しながら、出来事に接近してゆく一つの様式である。


ラカン象徴界
私がその理解も共感も絶した他者、いかなる度量衡も共有されない他者に出会う境位


想像界
私が出会う人々が、私たちとともに一つの全体性を構成している、感情移入可能な他我であるような境位


他我とは
私とは別の主観として、同一の客観的世界を経験している。私の世界経験そのものが他我の世界経験を前提としている。つまり、自我の変容体であり、非ー私でありながら、私の自己同一性を担保するもの。


他我と間主観性の違い。
間主観性が成り立つときには他我の存在さえ必要ない。なぜなら、世界で一人だけ生き残っても世界が存在することは感覚されるから


他者とは
自我と一切の度量衡を共有しない。他者を経験するのは、ただ欲望を通じてのみであり、その欲望は、私たちの解体をもたらし、主体の後を追うことを要求するのである。


レヴィ=ストロース

あらゆる社会活動=他者と主体、語り手と聴きて、師と弟子は、パロールを交換することを要求した、伝えようとする欲望と聴き取ろうとする欲望の衝動の同時的な生起に帰着する。つまり、語られたことの記号の交換は、語ることの意味生成の副次的な効果にすぎない。


主体とは
何かについての意識が起源的に生起し、その後に、その経験を2分割=二重化する事で、ほかなるもの=対象と意識=主体が立ち上がる


主体性とは
同一者のうちなる他なるものであり、他なるものが同一者に接近するために、同一者は有責性=対応可能性として遅れて出来する。しかし、ある意味では同時に出来する。


エポケーとは
現象学的思考停止であり、目に見えている世界をかっこにいれることで、それは顕示されつつ顕示されないという二重化をもつ。この二重化は語義の一歩手前に遡及し、この記号以外に私たちには使える記号がないものが存在することを私たちに告げる。つまり、己を示すものと己を示さないものが同様の名を持つということを宣告する。そして、そこに現れないものを現すには隠す事=前言撤回、両義性が必要


語ることと語られる事

語られた事は、私たちが伝達可能な実体のあるものであるが、語ることは実体のない意味形成に先立つであり、語る事は語られる事に従属している。

しかし、語ることはあらゆる対象化作用に先行しており、隣人を巻き込む物であるからこれは、コミュニケーションの暴露としての、コミュニケーションの条件となるコミュニケーションである。

挨拶は、こんにちはと語ることで、相手を認識、判別する行為に先立って祝福する。つまり!あなたに祝福を送り、あなたとの対話を切望している事を伝える事=記号を贈与する記号であって、そのパロールが届かないリスクを引き受ける、自らの存在の不確かさを暴露する=倫理的な行い。


全体性と無限
全体性はオデュッセウスに例えられる。

未知を既知に還元する事ができるのは、他なるものが自己と全体性=度量衡を共有しているからである。

無限はアブラハムに例えられる

神の啓示=他者の召喚によってはじめて主体となる事ができる。


汝殺すなかれとは

他者は、常に私の予見不能性を突きつけ、その限りで私は常に自分の存在に不安を覚える。他者を把持できないからこそ他者を殺す事はできない。


光の孤独とは

全体性のうちに生きる事

光は私たちに与えられている所有物であるが私自身とは別物である。それらの意味は私から由来するから、私は決定的に1である実存のうちに幽閉されている。


主体とは

全体性のない謎を、孤独に解釈し、決断することで誰によっても代替不可能な有責性を引き受けるものとして立ち上がる。


エロスと殺意の相同性

他者は私を常に、その全き裸形性(顔によって超越している。そこでは私の判断は麻痺され、私の存在は危機的=生成的状況に置かれる。だからこそ、相手を自己に還元しようとする志向が生ずる。それがエロスと殺意である。

しかしそれでは社会は成り立たない。社会を成り立たせる倫理的秩序や法的公正は、第三者(形而上)の到来する事で、対面する他者によって担保されていた私のかけがえのなさが二つに増え、他者の他者性を査定、所有する要請がなされるからである。その要請は、秩序への還元、自己への還元であり、そこから殺人が出立する。

エロスに於いてはむしろ第三者は疎外される。エロス的関係では、お互いが相手に遅れをとっており、受動的である。愛されているという啓示に似た物によってエロス的欲望は賦活されるウロボロス状にある。


顔の彼方とは、
顔が意味形成=解釈の実況そのもののことであるのにたいし、顔の彼方は顔の手前にある、解釈を可能にするため何も意味しない(0の方無限)事が機能している地平の事


繁殖性
主体が他者との連続性の中で、同一ではないものへ変化し続ける持続性、私ではない私(息子)への展望

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