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性食考 覚書

性食考

銘をうつ、来し方、メディアとなる、ヴァギナデンタタ


レヴィ=ストロース 狂牛病のエッセイから
神話の時代、全ての生命を持った物の間にあった原初の連帯
自らを養う肉食のための罪障感=哲学


人間と動物を往還する即物的な変身作法
民族社会はしばしば子供の体に忘却の許されない出来事の記憶をきざみつける。
日本では、「オシラサマ東北の伝承」

農家に娘がおり、その娘は家の飼い馬と仲が良く、ついには交わってしまった。父親は馬を桑の木に吊るし攻め殺してから、生皮をはぐと、娘がやってきて泣く。馬の生皮は娘のそばに行き、その体に巻きついて天に飛んでった。

聴耳草子 「カチカチ山」

狸が婆を臼で搗きころし、婆の皮を剥いで、それを被って婆に化ける場面がある。狸は婆を切り刻んで汁にして狸汁だとして爺に飲ませる。

「姥皮」 柳田國男
聴耳草子「親譲りの皮袋」

そこでは、母親の残した生臭い醜いふしぎなものをめぐって奇妙な物語が展開する。母親はそれについて、これはおまえがうまれたところであり、私が一生の間人に見せなかった物であるから大事にとって置いてけろと息子に言葉を残す。息子はそれを干して皮の袋をつくり、常に持ち歩いていた。ある時、牛の交尾が行われているところ、オスとメスが離れられなくなり困っていた。息子はその袋の口を広げると牛達はポツンと離れた。 


西洋と日本の間の動物観、自然観の差異

昔話におけるモチーフとしての変身について、日本の異類婚姻譚に普遍的に見られるのは「鶴女房」「狐女房」「蛇女房」など<異類→人間→異類>という形式である

西洋の童話では「蛙の王様」など<人間→異類→人間>となる。

動物に霊的な力を認めているかいないか。善良なものか。生き物は人間の姿をとる事ができる、つまり、人間は自然の中の一部であり、動物の一種であるという考え。


レヴィ=ストロース
世界中のあらゆる言語が性交を摂食行為になぞらえている。


中村生雄 
肉食の快楽/罪責の狭間に引き裂かれた感情

野生動物は一方では自然界の領有を人間と争う競合的な他者であり、一方では人間と同じ生物のメンバーとして同一の生活環境を共有する仲間である→敵対と親和


自然と人間の関係性の相対を考えた場合、野生動物、大地と表彰される物全般に対する人間の介入行為とそれらがもたらす負の感情を、人々が日々の生存の中でどのように了解し、どのように正当化していくかという問題。→文化や宗教


食は性の比喩となりえる。
「食欲をそそられる」

なぜなら、性も食と全く同様に交流性・一体化の領域と攻撃性・非攻撃性の領域に分かれる。違いは、カニバリズムを除き食は食べ物を媒介すること。


リーチ タブー理論
幼児は自然界の連続性の中に生まれる。しかし、言語を学ぶ事で世界を分類し認識する。タブーは分離している部分(非-知)の認知を禁ずる。

タブーとは、言語によって構成されている見えない分類の体系のなかで、両儀的な例外的なカテゴリーとして発生される。それらの言葉は聖性や価値、力を抱いており、私であって/私でないものの領域にある。

たべる物質であるのに、それを食べるか否かを決めるのは、タブーである。


可食性=性的可触性/ペットの食禁止=インセストタブー

しかし、儀礼の際は自分が育てた肉を他者によって消費させる。自分はその肉を食べない

人間でも母、姉妹、娘を犯すことはない。それは他人に与える事を強いる贈与の規則である。

ここにいう自己消費のタブーとは、自ら可愛がり育てた動物を自らの儀礼に消費することはなく、また、自らの愛する姉妹や娘を自らが性的に消費することもなく、他者に消費を委ねる義務によって自己と他者の間には財と女性の交換からなる社会システムが構築される


人間は戸籍を動物に持ちながら、それを抑圧し、闘争する逆説的な人間。それが食と性にタブーが付着しやすい理由。

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