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計測の科学―訳者あとがき

 いまの私たちの生活には、数字の存在が欠かせない。たとえば時間。一日のスケジュールはおおよそ決められており、朝は寝坊しないよう、前の晩に目覚ましをセットする。職場や学校に出かけるなら、定刻通りにやってくる電車に乗り遅れないように身支度をすませる。職場での仕事も学校での勉強も、時間が細かく配分されている。帰宅すればだいたい同じ時間に食事をして、だいたい決められた時間に就寝する。もしも時計がなかったら、大混乱に陥る。時間の概念がない時代には、日の出と共に一日が始まり、明るいうちは戸外での作業に精を出し、日が沈めば一日が終わったことだろう。私たちにとって数字はごく当たり前の存在なので、人間の発明品だという事実をつい忘れてしまうほどだ。大昔、数字がどのように発明されたのか記録が残されているわけではないが、数字の発明によって集団生活に秩序がもたらされた結果、人間の社会は高度に発達して今日に至ったと考えられる。

 数字は本当にありがたい存在だ。たとえばスポーツ競技など、数字がなければ成り立たない。競泳や陸上競技では、タイムが厳密に測定される。タイムにこだわらずに野原を走ったり、川を泳いだりするだけでは、世界記録は確認できず、トレーニングにも熱が入らないだろう。そして、数字は貴重な情報を伝えてくれる。コロナ禍もだいぶ落ち着いたように見えるが、しばらくのあいだは一日の感染者数が発表され、それに基づいて行動を判断したものだ。どれだけ増えたか、あるいは減ったか、報道で確認しては、一喜一憂した。何も知らなければ、それですんだのかもしれないが、感染のリスクを避けるために確実に役に立った。

 本書は、私たちの生活とは切っても切れない関係にある計測が、大昔に発明され、都市の発達と共に洗練され、度量衡の統一が社会に秩序を生みだし、科学の進歩やグローバリゼーションが促され、いまのように生活の多くの側面が数字に管理され、ネットの膨大な情報に振り回されるようになるまでの経過を、時系列で解説している。ただし、単なる科学書ではなく、計測の発達にまつわるエピソードが満載だ。特に、度量衡が統一され、それが世界を大きく変えていくプロセスは面白い。私たちが何気なく使っているメートルやキログラムが、多くの人たちの努力の結晶であることがわかる。そして、著者のジェームズ・ヴィンセントの取材旅行は紀行文のように面白い。エジプトではナイロメーターを見学し、パリではメートルやキログラムの原器を、スウェーデンでは最初の温度計を見せてもらった。この温度計は、いまとは目盛りの付け方が反対になっている。

愉快なところでは、イギリスでメートル法に反対する活動家と一緒に、他愛のない違法行為に手を染めている。詳しくは、本文を読んでいただきたい。

 統一された度量衡で社会が管理されると、それまでの自由が奪われることに人々の不満が募ることは、いつの時代も変わらない。実際、少々いい加減な表現のほうが、状況を理解しやすいこともある。たとえば、この畑の面積は何エーカーというよりは、牛一頭が一日に耕せる面積と説明するほうが、あるいはあそこまでの距離は何メートルというよりは、犬の鳴き声が届く距離と説明するほうが、イメージがわいてくる。そもそも、数で表せば正確というわけでもない。たとえばフランス革命の時代には、メートルの基準として子午線が採用されたが、子午線の長さは緯度によって異なる。そして、世界共通の単位の基準となるキログラム原器は、これなら完璧だと思われてきたが、実は時間と共に僅かだが劣化が進み、軽くなっていることがわかった。そのため、いまでは物質に頼らず、物理定数が採用されるようになった。

 いまや計測はどんどん細かくなっていくが、ならば数字は正しいと全面的に信じてはいけない。キログラム原器のエピソードは、その大切さを教えてくれる。ところが私たちは、数字で表現されるものは正しいと、つい考えてしまう。たとえば本書には平均が誕生するまでの歩みについての記述がある。いまは平均というと、平凡なイメージがあるが、当初の平均は、理想を意味した。そして平均値から外れるのは劣っている証拠と見なされ、差別につながる可能性もあった。いまでもテストの偏差値や平均点は、学力を判断する目安として重宝されるが、あくまでもひとつの目安として考えなければいけない。

 そうはいっても、現代社会の数字へのこだわりは強くなる一方のようだ。たとえば、本書では万歩計について取り上げている。私は持っていないが、万歩計を利用している人は身近に多い。「今日は一万歩を達成した」から健康を維持できると安心するようだが、これには科学的根拠がない。実際には、高齢者が健康を維持するために一万歩は不要だという。スマートウォッチも、使う人は増えているようだ。あるいは、健康診断の結果は数値によって細かく評価されるが、正常値から少しでも外れたら病気というわけではない。こだわりすぎるほうが、健康には良くないのではないか。むしろ、自分の体の声を聞き取る感性を磨き、それを数字から得られる情報と組み合わせれば、より良い判断ができるだろう。昔の人のように、状況を的確に判断する能力は大切だ。ちなみにゴルフでは、いまは距離を時計で測る人が増えた。確かに、残り何ヤードと正確に表示されれば便利だが、頼りすぎると感性が鈍ってしまうような気もする。なかにはパターにまで使っている人もいるが、やはりほどほどがよい。何事も「良い塩梅」を心がけたい。

 数字には良い点も悪い点もあるが、私たち人間と一緒に歴史を歩んできた。本書を読んで新しい知識を増やし、理解を深めていただければ幸いだ。(後略)

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