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エビとカニの博物誌―はじめに

 甲殻類(甲殻亜門)は動物の世界で最も繁栄している節足動物門の中で、昆虫類に次いで重要な一群である。水生動物としては貝類の次に種類が多く、現在までに7綱7万種以上が知られている。大型のエビやカニは原始の時代から食料源として、ヒトの生活と密接なかかわりをもってきた。おいしくて経済価値が高い水産物だけでなく、美しい色彩や面白い習性をもつものや、海岸でのレジャーで親しまれている種類が多いから、しばしば郵便切手の図柄として使われている。殊に1960 年代後半から印刷技術の進歩と相まって、新たに独立した旧植民地や遠隔の大洋島で、切手収集家のためともみられるような多色刷りの切手が次々に発行されるようになって、甲殻類の切手は数を増した。

 パリやアムステルダムでは、日曜日になると街の公園で朝から切手市が開かれる。同好のひとたちが木陰のベンチで話したり、露店に並べられた切手帳を開いたりして静かな休日を過ごしている様子は、人間の歴史のある日常生活だけが醸し出す和やかな風景である。残念ながら、この趣味の文化を見るような雰囲気は日本のどこにもないようだ。オランダのライデンにあるオランダ国立自然史博物館(現、ナチュラリス生物多様性センター)におられた甲殻類分類学の碩学(せきがく)、リプケ・ホルトハウス博士(L. Holthuis, 1921-2008)のコレクションに触発されて甲殻類の切手集めを始めた私は、外国に滞在しているときには、ときどきそんな切手市に出かけて、くつろいだ一時を過ごした。会議で疲れた頭の休養になったし、ちょっぴり土地っ子になったような気分も味わえて楽しかった。

 トピカル(動物や乗り物など図案別の)切手収集の楽しさは図柄の美しさだけでなく、その切手が発行された理由や図柄の背景調べにあるというひとが多い。しかし近年、各国の郵便制度が変わって、切手の発行が公社や民間に委ねられるようになり、そうした国からは、残念ながらその地域とは何の関係もない図柄の切手がしばしば発行されるようになって、郵便切手の品格が下がり、切手が必ずしもその国の生きものや地理や文化を世界に伝えるものではなくなった。それでも集まった切手をあらためて眺めてみると、一枚一枚にその切手を見つけたときの軽い興奮が頭をよぎるし、時にはエビやカニが棲むはるかな 海の風や小島に躍る陽光を感じたり、その料理を味わったときをなつかしむことがある。

ホルトハウス博士や各国で活躍する甲殻類の研究者と一緒に切手の図柄から種類を判じて書き留めておいたメモを整理して、その中のいくつかの種類について、その生態や私たちの生活とのつながりやそれらに出会ったときの想い出を甲殻類の博物誌というかたちにまとめたのがこの本である。一辺数センチメートルに過ぎない郵便切手が、波立つ大海原や静かな内海や小さなせせらぎに棲む多様ないのちの世界へのいざないとなれば大変うれしい。本書を、長年、一緒に切手集めを楽しんだ亡きホルトハウス博士に捧げる。

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