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地球を滅ぼす炭酸飲料―訳者あとがき

『地球を滅ぼす炭酸飲料』というタイトルをご覧になって、どのような印象を持たれたでしょうか。炭酸飲料が地球を滅ぼす? どういうことかなと疑問に思われたかもしれません。実はアメリカでは、炭酸飲料に甘味料としてHFCS(異性化糖)が使われることが多いのですが、その原料はトウモロコシ。つまり、炭酸飲料の需要が増えれば、トウモロコシの収穫量を増やす必要があり、トウモロコシの収穫量を増やすためには、遺伝子組み換えなどトウモロコシの品種改良、除草剤や殺虫剤の散布が必要となり、それが自然環境の破壊につながります。あるいは、使用済みのペットボトルが未回収でも、環境には悪影響がおよびます。炭酸飲料ひとつだけでも、複数の問題を抱えているわけです。

 本書の著者ホープ・ヤーレンは、大学で気候変動に関する講義を受け持ってほしいと依頼されたことをきっかけに、環境問題に様々な角度から取り組み始め、あちこちからデータを集め、現状を冷静に分析しています。正義を振りかざすわけでもないし、不安を煽るわけでもありません。本書は人口、食糧、エネルギー、地球環境と、環境問題に体系的に取り組んでいることが特徴で、一読すれば一通りの知識が身に着きます。ちなみに炭酸飲料に関しては、食糧問題を取り上げた第Ⅱ部の第8章で詳しく解説されています。

 では、環境問題を改善するためにはどうすればよいか。本書によれば、環境悪化の元凶は、世界人口の一部を占める先進国の住民の放埓な暮らし。食べ物についても、エネルギーについても、際限なく欲望を膨らませ、それが環境に負荷を与えているのです。先進国の暮らしは豊かになっても、それは食糧やエネルギーを供給する途上国の犠牲のうえに成り立っています。そこで著者ヤーレンは、先進国の住民(私たち日本人も含まれます)が従来の生き方を改め、経済活動をスローダウンさせるべきだと訴えています。肝心なのは、The Story of More(これは原著のタイトルです)から、Story of Lessへの転換を図ること。

 では、具体的にどうすればよいのか。本書では最後の付録の部分で、無駄を減らすための具体策を紹介しています。たとえば室内の空調の設定温度を少し変えてみる、飛行機や自動車を利用する頻度を少し減らしてみる、食材を買いすぎた挙句、使わずに廃棄処分する習慣を改める。先進国の住民のひとりひとりが、このような小さな取り組みから始めるだけでも、かなりの効果が発揮され、先進国と途上国の格差は縮まるとヤーレンは強調しています。もしも環境への負荷を減らす技術が発明されたとしても、それを十分に活用しなければ問題は解決されません。たとえばかつて、石油危機をきっかけに乗り物の燃費はかなり向上しました。ヤーレンによれば、そのとき省エネを徹底させていれば、石油の消費量は確実に減ったはずで、人類は貴重なチャンスを逃してしまいました。

 本書では、代替エネルギーに関しても興味深い指摘があります。最近、日本でも太陽光発電施設をよく見かけますし、数は増え続けているような印象を受けます。太陽光という自然の恵みを上手に活用すれば、化石燃料への依存が断ち切られるような印象も受けますが、話はそう簡単ではありません。

 実は、太陽光発電によって生み出される電気の量は、全体の一パーセントにも満たないのです。たとえばアメリカ全体に太陽光発電だけで電気を供給するためには、サウスカロライナ州と同じだけの面積をソーラーパネルのために犠牲にしなければなりません。これではかえって、自然環境の破壊につながってしまいます。あるいは、最近よく話題にのぼる電気自動車は、充電の際に化石燃料が使われます。代替エネルギーはクリーンだからと言って消費量を増やせば、結局は資源の無駄遣いにつながります。

 自然環境の変化は、日々の生活でも感じられます。日本では、「過去に例のないほど激しい」と報道される豪雨や台風が増えており、昨年(2019年)の台風19号は深刻な被害をもたらしました。私は直後に氾濫した千曲川を見る機会がありましたが、川べりの畑は全滅で、台風が残した爪痕の深さに愕然としました。あるいは暖冬の影響で、雪不足も深刻です。最近ではスキー場も、人工雪を使わないと経営が困難なところが多いようです。一昔前のように、サラサラのパウダースノーを楽しむことが今後はできないのかもしれません。

 実際、産業革命以後の地球の平均気温の上昇を、二度未満に抑えないと大変な事態になると言われます。いまはまだ少し余裕がありますが、先進国の生活が現状のままでは、二度を超えて上昇する日が数世代後には訪れます。私たちは、少しでも良い環境を子孫に残すため、生活のスローダウンに取り組まなければなりません。

 ちなみに先日、日本では政府が、温室効果ガスの排出量を2050年までに実質ゼロにする方針を発表しました。素晴らしいアイデアであり、実現することを心から願いますが、やはり現在の生活を改めることが大前提ではないかと思います。日本の新たな成長戦略と位置づけているようですが、成長と環境保護を両立させるのは簡単ではありません。ここはヤーレンが強調するように、ひとりひとりが身近な部分から変えていくのが賢明なやり方ではないでしょうか。

 いま世界に目を向ければ、グレタ・トゥーンベリさんが地球温暖化のもたらすリスクについて強い調子で警告し続けています。グレタさんは2003年生まれの17歳。15歳のときから、気候変動問題のための学校ストライキをスウェーデン議会の前で始め、気候変動対策の強化を訴えてきました。そして2018年の国連気候変動会議での演説で、世界中の注目を集めます。「あなたは私たちの未来を盗んでいる」「自分の家が燃えているかのように行動してほしい」と、10代の少女が訴える姿は印象的です。プーチン大統領は、「現代世界は複雑で込み入っていることを彼女は理解していない」と発言したそうですが、その複雑な世界を大胆に変えていかなければ、グレタさんの孫の世代に深刻な影響がおよぶことを忘れてはいけません。彼女の環境への取り組みは徹底していて、移動の際、温室効果ガスの排出量が多い飛行機を利用しません。2019年には、環境を汚染しないヨットで大西洋を2週間かけて横断し、アメリカを訪れました。

 最近では国内でも、レジ袋の有料化が始まるなど、環境問題への関心は少しずつ高まっているように思えます。私ならば、エアコンの設定温度を見直し、車の利用回数を減らし、大好物のサーモンを食べる機会を少し減らし、購入した食材はきれいに使い切る……といった課題が思い浮かびます。あるいはネットを覗くと、独創的なアイデアも見つかります。

 たとえば、氷河を再生させるため、山腹を白い塗料で塗る実験が行なわれています。遠隔での植林で森林を復元するデジタルプラットフォームもあります。これはリモート植林と呼ばれ、個人や企業が予算や二酸化炭素排出量に応じて、世界各地の森にリモートで植林する取り組みです。それから、白化現象が進むサンゴ礁を微量の電流を使って再生するプロジェクトも成果を上げているそうです。短期間での劇的な改善は期待できなくても、創意工夫を地道に積み重ねていけば、良い方向への軌道修正が後押しされるのではないでしょうか。

『地球を滅ぼす炭酸飲料』は、ホープ・ヤーレンの2冊目の著書です。ヤーレンの専門分野は地球生物学で、処女作『ラボ・ガール』(化学同人)は、男性中心の学問の世界で理想のラボを築くため、幾多の苦境を乗り越えて逞しく生き続ける女性科学者の自伝です。彼女は優秀な科学者であると同時に優れた文才の持ち主で、『ラボ・ガール』は全米批評家協会賞(自伝部門)を受賞し、18カ国以上で翻訳されました。本書『地球を滅ぼす炭酸飲料』では、美しい文章で綴られたエピソードを読むことも楽しみのひとつです。

 そしてもうひとつ、『地球を滅ぼす炭酸飲料』は、コロナ禍に見舞われた後に人類はいかに生きるべきか、そのヒントを与えてくれる一冊でもあります。世界がこれほどの災難に見舞われるなど、少し前には想像もできませんでした。やがてウイルスもおとなしくなるのではと期待していましたが、相変わらずしぶとく生き残っています。私自身、大人数での集会はすべて中止になりました。幸い、翻訳家の仕事はもともと自宅でパソコンに向かって訳文を打ち込む作業が中心なので、影響はありません。それでも、編集者の方たちと対面で打ち合わせをする機会は失われてしまいました。

 この先どうなるかは五里霧中の状態ですが、これまでも人類は様々な問題を克服してきたのだから、今回もかならず解決策は見つかると、ヤーレンは確信しています。そして、こんなときには恐怖を煽っても、良い結果は得られないと忠告し、その一例として、核兵器の恐ろしさを強調しても保有国の数はかえって増えてしまったケースを紹介しています。この忠告は、強く心に響きました。

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