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東大式 癒しの森のつくり方―はじめに(浅野友子)

「富士癒しの森研究所」……およそ東京大学の研究所とは思えない名前の小さな研究所が山梨県山中湖村にあります。私は9年前にこの研究所に所長として赴任しました。癒しの森──なんともほんわかしたキーワードを掲げたこの研究所はいったい何を研究するところなのか? 私に何ができるのか? はじめはとまどうことばかりでした。

何を研究するところなのかは、半年ほどで体感できました。例えばこんなふうです。研究所が行う野外講義では、まずは森林内の環境を整えることから始めます。本来私は教える立場なのですが何もわからないため、掃除担当です。たよりになるほかの先生方に教えてもらい、学生たちと落ちている枝や倒れた木を集めてきて燃やします。焚き火に枝葉を投入すると炎がばーっと上がり、もっともっと火を大きくしたい衝動に駆られます。この作業を数名で一心に続けると、気がつけば森の中がさっぱりとかたづき、あたりの雰囲気ががらりと変わります。寒い日でしたが、体はぽかぽかです。

講義のメインは学生が自分たちで考えた癒しの森をつくる作業です。アイデアを出し合ってつくった木材を使ったベンチや巣箱などはなかなかのできばえです。学生たちは、自分たちの力で森の中をよい雰囲気に変えることができると気がつき誇らしげです。最後は熾火(おきび)を使ってつくる昼ご飯です。炭火で焼いた肉や野菜のおいしいこと! 学生たちは共同作業を通じて仲よくなり、私はおいしい食べ物に大満足、森の新たな側面を知りました。

このような経験を重ね、研究所が世の中に伝えたいのは、森にはさまざまな使い方、味わい方、楽しみ方がある、ということなのだと感覚的に理解していきました。

私は森林科学分野(資源・環境・防災などあらゆる視点から森林を研究する分野)の大学教員であるにもかかわらず、恥ずかしながら少し前まで、森林資源の持続的な「利用」といったら、家を建てたり家具をつくったりすることぐらいしか頭にありませんでした。せっかく日本には木がたくさん育っているのに、現代社会では限られた用途しかないものだなと半ばあきらめていました。

本書で紹介する、経済的な指標では測れないことも多い、研究所が目指すような多様な森の使い方については、「利用」だとはっきりと認識していませんでした。けれども、研究所に来て、この身近な森の恵みの、ふだんの生活のなかでの「利用」こそが、私たちの暮らしを豊かにし、将来、日本や世界の森を豊かにする可能性があると気づかされました。この森の利用についての、私が今まで気づいていなかった観点は、古いけれど新しくて、未来に希望の託せる素敵な考え方だと思うのです。

言いわけになりますが、森林科学は研究対象も手法も多様な分野で、そのなかで私の専門の砂防学や森林水文学(すいもんがく)では、山地・森林は国土であり、水源であり、社会基盤として保全するべき対象ととらえます。水や土砂について研究するなかで、水資源の保全あるいは土砂災害や洪水については考えてきましたが、森を使うことについては深く考えが及んでいませんでした。

ですがこの研究所での学びで、山地・森林はそこにあるだけでありがたいのに、上手に利用できれば私たちの日々の暮らしに楽しみまでもたらしてくれることを知り、研究対象(山や森)のすばらしさに圧倒されています。なお最近の研究では、森林の上手な利用は、水資源の保全や防災にもつながることが実証されてきています。

日本の森林・林業を野球にたとえると、今の状況はまるでプレーヤーであるプロ野球選手と、プロの試合を観戦する野球ファンしかいないようです。地域で日常的に野球を楽しむ少年野球や草野球の選手はいなくなってしまったかのようです。野球をプレーする楽しみを享受するのはプロ野球選手のみで、ほかはプロの試合を観戦するしか楽しみ方がないように見えます。

つまり、森で働き、森の恵みを直接得ることができるのは、ごく限られた専従の林業従事者のみで、一般の人が森に関われる道は、プロ野球の試合観戦にたとえたように、木製の家具を使ったり、木材で家を建てたりなど、サービス業を通じた間接的なものしか残されていません。地域の人々が身近な森に入って薪やキノコ・山菜などの恵みを得る機会もだいぶ少なくなりました。

本来少年野球や草野球の存在が、野球というスポーツの裾野を広げ、プロ野球の存立基盤を支えているわけですから、少年野球や草野球をする人がいない状態が続けば、いずれ野球というスポーツ自体が関心を持たれなくなるでしょう。私たちは、日本の多くの地域で森に対する関心がうすれ、森林が価値を失ってしまったかのように見えるのは、森と人との距離が広がってしまったことが原因ではないかと考えました。

そこで、この状況を改善するために、プロの林業従事者と消費者しかいない現状を変えたい、草野球の選手を増やしたいと思いました。草野球は少し練習すれば誰でも楽しめるように、山しごとも少し習えば誰でもできるものであると知ってもらいたいとの思いから、一般の人が森に入って森を楽しみ、森の恵みを享受し続けられる仕組みを模索してきました。確かに山しごとは危険なこともあり気軽にできることばかりではありませんが、実態を知り工夫すれば、林業のプロでなくてもできる作業は多く、なによりも楽しいものなのです。

この本では、富士癒しの森研究所が、この10年間に一丸となって、また地域の方々の協力を得て取り組み、明らかにしてきた研究成果や実践例を紹介します。取り組むなかで、癒しの森的な森の恵みの利用が暮らしを豊かにすることにすでに気づき、独自に工夫しながら実践している方々が各地にいることも知りました。この本は、これまで支援し、協力してくださった方々や、すでに各地で森の恵みを利用されている方々と情報を共有したいと考え、つくりました。また以前の私のように、身近な森の恵みにまだ気づいていない方々に手に取っていただき、森の可能性に気づいていただく機会となれば言うことはありません。

本書は、癒しの森についての歴史と概説をまとめた第1部と、癒しの森でできる実践例を紹介する第2部の、大きく二つに分けました。富士癒しの森研究所では、教員、技術職員、研究員、事務員などのメンバーが協力して大学の森を管理しながら教育研究を行っています。本書は各メンバーの持つ専門性や技術、経験を持ち寄って構成しました。各章の主な著者とプロフィールは巻末を見てください。

第1部では、第1章で富士癒しの森研究所のある富士山麓・山中湖周辺地域の歴史をたどり、東京大学富士癒しの森研究所の歩みと、「癒しの森プロジェクト」を立ち上げた経緯を説明します。この章を読んでいただければ、人が森と関わり利用するうえで鍵になると私たちが考える新たな指標「癒し」と「癒しの森」について理解していただけると思います。

第2章では、これまで行われてきた地域や森林に関わる一連の研究のなかでの癒しの森の位置づけを示し、癒しの森の普遍性について説明します。この章は少し専門的になりますが、癒しの森という考え方が、地域の森を持続的に利用しながら生活を豊かにするうえで有効であること、富士山麓のみならずほかの地域にもあてはめられる考え方であることがわかっていただけるでしょう。

第3章では、実際に癒しの森をつくる場面で必要な安全管理や技術について、技術職員が実体験にもとづいて紹介します。また、身近にある木材を生かす具体的なアイデアや、プロの林業従事者でなくても使える便利な道具を紹介します。いざ森に入り、森の恵みを利用する際に参考になるはずです。

第4章では、森の恵みの最たるものである薪の上手な使い方について紹介します。ただ単に薪をどう使うかだけではなく、薪が燃える仕組み、煙とは何かまで解説しています。基本的な考え方を知ることで、より薪と上手につきあうことができるようになるでしょう。

第2部では、地域での活動のヒントになるような癒しの森の生かし方・使い方の具体例を紹介します。場面にあわせてアレンジし、身近な森を楽しむ活動に役立てていただければ幸いです。

第5章では、大学や大学院の講義として行った活動のなかから、森での体験プログラムや教育プログラムなどとして広く応用できる活動を選りすぐり、具体的な方法や工夫、注意点をまとめました。このようなプログラムを通じて若人の創造力が発揮されると癒しの森の生かし方が大きく広がることを知っていただけるでしょう。

第6章では、山しごとの楽しみを地域の人々に知ってもらうために私たちが開催し、好評だった企画の実施手順や楽しみ方を、実例をもとに紹介します。このような企画によって地域の可能性を知ることができます。

第7章では、森林散策カウンセリングの専門家が、癒しの森はこころの健康を保つのに有効であることを紹介し、カウンセリングに適した森について説明します。また、森をこころのために使う手軽な方法を紹介します。癒しの森の生かし方・使い方はさまざまであることを知っていただけると思います。

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