見出し画像

脳科学で解く心の病―訳者あとがき

 本書の著者エリック・カンデルは、脳神経科学の代表的な教科書『カンデル神経科学』の主要な著者である。2000年には、記憶や学習に関する神経メカニズムの研究でノーベル生理学医学賞を受賞した。生涯の研究テーマとしてヒトの心、つまり精神の本質を解明しようと取り組んできた。

 心と身体の関係について、17世紀の哲学者デカルトは、「我思う、故に我あり」と述べ、心は身体とは別にあり、身体とは無関係に動く、とする心身二元論を唱えた。しかし20世紀後半、現実はデカルトの考えとは逆で、「我あり、故に我思う」、つまり我々の身体、とくに脳があってこその心の動きであり、意識も含めた心の動きは脳内の神経回路の一連のプロセスによって生じる、と認識されるようになった。

 カンデルは、この認識の転換がもたらされたのは、哲学と認知科学、そして脳神経科学が融合して誕生した、「新しい心の科学」の成果であると説明する。そして本書で、新しい心の科学によって心の本質がどこまで解明されたのかを、「心の病(精神疾患)」という視点から記した。

 なぜ心の病なのか。カンデルはその理由を、次のように書いている。「コンピューターの部品が壊れたときにその部品のになう本来の機能が明らかになるように、脳の神経回路も、衰弱したり正しく回路が形成されなかったりするときに、その機能が劇的に明白になる」。

 本書が取り上げる精神疾患は自閉スペクトラム症からうつ病、双極性障害、統合失調症、認知症、パーキンソン病、ハンチントン病、PTSD、依存症など幅広い。こういった精神疾患を通して、人間の社会性や感情、気分、意思決定、記憶、動作、意識、無意識といったさまざまな精神的活動が、脳のどの神経回路から生じているのか、あるいはどんな遺伝子が関与しているのかといった生物学的な基盤について、どこまで解明されているのかを紹介している。さらには、精神疾患の患者の芸術作品を介して、創造性にも生物学的な基盤があり、創造性も脳の活動から生じている点についても解説している。

 例外的に心の病以外で本書に含まれるテーマは、性分化と性自認である。生物学的な性と性自認が一致しない状態は病気ではないものの、不一致が生じる過程をひもとくことで脳の性分化についての理解が深まるために、本書で扱われている。

 本書は、最先端の研究だけを紹介しているわけではない。精神疾患についても脳の働きについても治療法についても、過去にどのように理解されていたのか、それがどう推移してきたのかという歴史も紹介している。そのおかげで読者は、現在の認識や治療法について、より深く理解することができる。しかも、自閉スペクトラム症やうつ病などさまざまな精神疾患や、トランスジェンダーの当事者や家族の詳細な体験談がいきいきとした自伝やインタビューを引用しながら紹介されているため、それぞれの疾患やトランスジェンダーの当事者について、より身近に知ることができる。

 歴史的にみて、精神疾患には多くの偏見がつきまとってきた。たとえば親の愛情が足りないから、心が弱いから、といったように。しかし、それぞれの精神疾患の特徴や原因が生物学的に解明されるにつれ、いかに偏見が誤った根拠に基づくもので、いわれのないものであるかが科学的に立証されてきた。

 ただ、薬物依存症については、意思の弱い、違法薬物を使うような悪い人の病気といった偏見がいまだに根強く残っているのではないだろうか。そのような見方がいかに科学的に誤っているのかは、本書を読むとよくわかる。

 薬物によって快楽が得られるのは使い始めの初期だけである。その後は、薬物によって「報酬系」と呼ばれる神経回路に変化が生じ、快楽が得られにくくなる。それでも薬物の使用をやめられない、あるいはいったんやめても再発するのは、脳内に長期記憶が刻まれたがゆえだ。つまり、快楽を得られていた時期に薬物を使った環境、たとえば場所や人、状況などと薬物が関連づけられて記憶されているがゆえに、そういった環境に接すると、薬物が連想され、実際には快楽は得られないのに薬物を使いたいという渇望が生じる。この渇望は、無意識のレベルで生じる。つまり、意思の強さとは無関係である。

 薬物依存症に限らず、ゲーム依存症やアルコール依存症など、ほかの依存症で起きている脳内の変化も、ほぼ共通していると考えられている。

 自閉スペクトラム症から依存症まで、多くの精神疾患の発症に遺伝的要因、つまり遺伝子の変異(変化)などゲノムの変異の果たす役割が大きいことが明らかになっている。ただし、本書に記されているように、遺伝子の変異は必ずしも親子が共通してもっているものだけでなく、父親の精子の遺伝子に生じた、新しい変異であることも少なくない。また、自閉スペクトラム症をはじめとして遺伝的要因が大きな役割を果たしている心の病でも、多くは関連する遺伝子の数は百種類以上にのぼるなど多数である。遺伝に対しては、精神疾患と並んで偏見が多いが、心の病の発症には遺伝的要因が大きいと言っても、それは家族に原因があるという意味ではない。

 精神疾患を生物学的に解明することは、より効果的な治療法の探索や開発につながると同時に、すでに行われている治療の効果を検証することにもつながる。たとえばうつ病に対する認知行動療法を含めた精神療法の効果である。かつては、薬物療法は脳に働きかけ、精神療法は心に働きかけると考えられていたが、脳から心の動きが生じると明らかになった現在、どちらも脳に働きかけていることがわかった。そして、対照グループを置いた客観的な臨床研究や、脳イメージングなどを使い、精神療法の効果が明らかにされつつある。さらに、うつ病の治療では、治療を始める前の脳の特定の部位の活動量によって、薬物療法と認知行動療法のどちらが効果的かを判定することも可能になってきている。

 ところで、精神療法の一分野である精神分析についてカンデルは、20世紀後半の精神分析学は科学的な検証をおこたり、脳神経科学の知見もとり入れようとしてこなかったと批判する。精神分析医として臨床に携わった経験があるだけに、その批判には説得力がある。ただし、カンデルは苦言を呈する一方で、最近は科学的になりつつある精神分析を含めた精神療法が、さまざまな精神疾患の治療においていかに重要であるかについて、繰り返し強調している。精神療法を生物学的にみれば、学習や経験によってニューロン間の接続に解剖学的な変化をもたらす、学習と記憶という一連のプロセスであるという。批判すべき点は批判し、評価すべき点は評価する、という是々非々の姿勢は科学的である。

 精神疾患の生物学的基盤の解明により、予防についても新しい可能性が考えられるようになっている。たとえば、薬物依存症については、著者が本書を捧げるデニス・カンデルらの疫学研究と動物実験から、喫煙によってニコチンに曝露されると、脳内が変化し、より薬物依存症が起きやすくなるということがわかったという。思春期の子どもたちに禁煙教育をより徹底的に行うことが、薬物依存症の予防にもつながることになる。

 脳神経科学は、人類の倫理的な判断の背景にある生物学的なプロセスについても明らかにしつつある。アメリカの刑事裁判で、そういった脳神経科学の知見がとり入れられつつあるというのには驚く。思春期の子どもは、行動を制御する際に、成人とは異なる脳の領域を使っているという脳科学の知見を踏まえ、米連邦最高裁判所は、未成年犯罪者に対する、仮釈放の無い終身刑の判決は違憲であると判断したという。将来的には、倫理的判断をになう脳の神経回路に損傷があり、適切な倫理的判断ができない人が犯した犯罪について、罪を問えるのかどうか、という新たな議論が必要になるのかもしれない。

 カンデルは、新しい心の科学を牽引してきた主要な要因として、遺伝子を含めたヒトゲノムに関する知見と、機能的MRIなどの脳のイメージング技術、そしてモデル動物による実験をあげる。

 そして、新しい心の科学のさらなる進展によって、脳機能と精神との関係がさらに解明されれば、やがて神経科と精神科は融合し、一つの診療科になるだろうと予想する。日本ではまだ精神科を受診することに抵抗を感じる人がいることを考慮すれば、神経科と一つの診療科になることは、心の病に悩むより多くの人が、早期に専門的な治療を受けられるきっかけになり、好ましいことではないだろうか。

 新しい心の科学は、創造性を生みだす生物学的な基盤についても解明しつつある。そういった知見を踏まえ、カンデルは将来的には自然科学と人文科学が融合し、新たなヒューマニズムが誕生する可能性があると展望する。そして、新たなヒューマニズムは、脳機能の差異を生みだす生物学的な背景を踏まえており、自己や第三者についての理解が、これまでと根源的に変わるだろうと予見する。そのような理解が深まれば、生物学に根づいた一人ひとりの人間性を、心の病も含めてよりよく理解できるようになる。それが実現すれば、心の病に対する偏見や差別も解消されると期待できる。

 訳者にとって本書は、カンデルの著書の二冊目の翻訳である。カンデルの経歴については、前の翻訳書『芸術・無意識・脳──精神の深淵へ 世紀末ウィーンから現代まで』(九夏社、共訳)の訳者あとがきに詳しく書いたので、本書では、カンデルが生涯の研究テーマであるヒトの心になぜ興味を持つようになったのか、そしてどのように研究してきたのかについて簡単に紹介する。

 カンデルがヒトの心に興味をもつようになったきっかけは、ユダヤ人一家の子どもとしてウィーンに住んでいた1930年代の体験だ。ナチスが台頭し、とくにオーストリア侵攻後は、それまで仲良くしていた学校の友だちが急に口をきいてくれなくなったり、いじめられたりするようになった。実家のおもちゃ屋は略奪にあった。そんな体験から、ヨーロッパの知識人がナチス時代に突然、非道で野蛮な行動をとるようになり、洗練された文化をもつ社会が急に悪に向かって突き進んだのはなぜか、そしてその背景にある、矛盾だらけの動きをする、ヒトの心の本質は何かを知りたいと思った。

 大学の学部生時代には、19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパの歴史を専攻した。その後、精神分析医を目指すようになった。精神分析医になるには医師免許が必要であるため、ニューヨーク大学医学校に進学。そこで基礎生物学にひかれるようになる。しばらくは、精神分析の臨床医として働きながら脳神経学の基礎研究も行う生活を続けた。しかし、臨床医を続けながら基礎研究を究めるのは困難だと痛感し、基礎研究に専念するようになった。

 本書の原題は「The Disordered Mind」である。現在、英語の専門用語では、「Dipressive Disorder」「Integration Disorder」など、精神疾患の多くにdisorder がつく。研究社の新英和大辞典によると、disorder は、(心身機能の)不調、障害、(軽微な)病気、疾患といった意味をもつ。

 国内ではこれまで、disorder は原則的に「障害」と訳されてきた。しかし、世界保健機関(WHO)の「疾病及び関連保健問題の国際統計分類 第11版」(ICD ─11)が2019年のWHO総会で採択されたのを機に、厚生労働省が関連学会の意見を参照しながら和訳の見直し作業を進めている。日本精神神経学会など精神疾患関連学会の見解によると、ICD ─11では、うつ病のようにすでに社会的に広く根づいている病名を除き、disorder は「障害」ではなく「症」と和訳されることになる見通しだ。

 日本語の障害は、disability の意味でも使われるため、治療によって治ることもある精神疾患に使うと、不可逆的に治らないという偏見を助長する恐れがあることや、患者にとっても「〇〇障害」と診断されることは負担感が大きいという懸念などがあるのが変更の理由だ。Autism Spectrum Disorder についてはすでに「自閉スペクトラム症」という訳が使われている。

 本書の翻訳にあたっては、原則として2023年時点で日本精神神経学会が一般向けの解説で使用している精神疾患名を使った。今後、疾患名の変更がある点はお含みおきいただきたい。

 カンデルが書いているように、精神疾患は、落ち込んだり、気分が高揚したり、何かを忘れたりといった誰でもが日常的に経験する精神状態が極端に高じたり、過剰に長く続いたりして、日常生活に支障が出るときに診断される。つまり病気と病気ではない状態は連続的で、どこで境界線を引くのかは難しい。歴史的にみると、時代によって境界線の位置は変わってきた。

 したがって、正常、標準的、典型的な状態と、そうではない異常な状態を線引きするのも難しい。また、日本語で「異常」という言葉は、何か好ましくないこと、というニュアンスで使われることが多い。そのため、翻訳にあたっては、なるべく「正常・健常」「異常」という言葉を使わないように心がけた。ただし、使わないと意味が伝わりにくい場合には使用した。本書で使用した「異常」には、好ましくない状態というニュアンスは一切含まれない点もご理解いただきたい。同様に、遺伝子の欠陥などに使った「欠陥」にも、好ましくないというニュアンスは含まれない。あくまで生物学的な状態を中立的に表現している。

 本書に記されているように、カンデルは、「感情(emotion)」と「気持ち(feeling)」という言葉について、感情は「観察可能な無意識の行動に関与する要素に限定」、気持ちは「感情の主観的な体験」と使いわけている。これは神経学者アントニオ・ダマシオの見解に沿っている。emotion は、医学や心理学では「情動」と訳されることが多いが、あまり一般的な言葉ではないので、「感情」と訳した。

「genetics」は「遺伝学」が定訳である。遺伝学は、親から子孫に伝わる遺伝に関する学問という意味で使われることが多いが、本書のgenetics は、本来の遺伝学という意味だけでなく、遺伝子やヒトゲノムの分子生物学的な研究も含めた、幅広いゲノムに関連した研究という意味で使われていることが多い。できるだけその意味が伝わるような訳を心がけたが、読みにくくなる部分などは「遺伝学」という訳を、広義の遺伝学として使っている。

 最後に、本書の引用文は、邦訳された書籍がある場合も含め、すべて訳者が原書に記載されている英文から翻訳した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?