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僕が肉を食べなくなったわけ―訳者あとがき

 白状すると、この本を訳しながら、私は翻訳をお引き受けしたことを後悔していた。本書がつまらないからでも、本書の主張に賛同できないからでもない。逆だ。筆者が次々と繰り出す「事実」の、有無を言わさぬ説得力に圧倒され、筆者の主張に賛同しながらも、この本に自分がどこまで影響されたいか、賛同したからと言って本書の主張を自分がどこまで実践できるのか、自信がなかったからだ。言い換えれば私は、あとがきにいったいなんと書けばいいか、皆目わからなかったのだ。

 筆者はヴィーガンになれと言う。でも、今の日本では、生半可な覚悟ではヴィーガンになどなれない。美味しいものを食べるという共通の関心で結ばれている友人たちに何と言えばいい? 集まって美味しいものをいただく席で、自分だけ肉や魚や乳製品を食べないなんて申し訳ないではないか。第一、肉を食べないというのはまだしも、大好きな寿司もチーズも食べられないなんて、老い先短い身にあまりにも酷ではないか。まさに理性と感情のせめぎあいである。こんな極端なこと言ったって、実践なんかできっこないじゃない、という反論の声が聞こえてくる。

 こんな頼りない人がこの本を訳してよかったんだろうか? 筆者と志を一つにする動物愛護・自然保護活動家で、すでに動物を食べないと決意している人が訳した方がよかったんじゃなかろうか──。そう思いながら、でもその一方で、おそらくこの本を読む人の大多数は私と同じように感じるはずだし、そういう人にこそ読んでもらいたい。だから、この本を読もうか読むまいか迷っている人に向けて、そういう人の代表として、このあとがきを書いている。

 本書の原題は『How To Love Animals』である。直訳すれば「動物の愛し方」、あるいは「いかに動物を愛すべきか」とでもなるだろう。筆者ヘンリー・マンスは無類の動物好きで、読者もまた動物が好きであることを前提にしているところがある。私自身も動物は好きだ。かなり好きな方だと思う。インスタグラムの動物動画にはつい時間を忘れて没頭してしまうし、自然が豊富なアメリカの自宅に滞在中には、庭に遊びに来るシカやウサギやアライグマや無数の小鳥たちを眺めて過ごすのが何よりも好きだ。これを書いている今この瞬間も、窓の外にはシカの親子がいて、まだ斑点のある仔鹿が庭を跳ね回っている。私はそれを飽きずに眺める。お金と暇があったら、巨大な望遠レンズを抱えて野生動物を日がな一日撮影していたいと思うくらいだ。

 もちろん、世の中そういう人ばかりではない。動物になんかとんと興味がないという人だってたくさんいる。だがこの本は、動物なんか好きじゃない人に動物を好きになれと言っているのではないし、そもそも、動物を愛するというのは動画を眺めてほんわかとした気分になることでも、ペットの犬や猫を溺愛することでもないのだということをわからせてくれる。ひどい扱いをされている動物を見て義憤に駆られる、それだって動物を愛するということなのだ。

 そして何よりも、自分が暮らす地球という惑星の未来が、それを意識していようがいまいが、人間と動物の関係のあり方にどれほど影響されているか。本書を読めばもはや「知らなかった」では済まされない。その意味で、本書の日本語タイトル『僕が肉を食べなくなったわけ──動物との付き合い方から見えてくる僕たちの未来』というのは、原書よりも的を射ていると思う。

 筆者であるマンスは30代後半のイギリス人ジャーナリストで、『フィナンシャル・タイムズ』紙の特集記事責任者として、主に長編記事を担当している。本書はマンスの初の著作である。インタビュアーとしても評価が高く、ラジオやテレビのニュース番組にも頻繁に登場するという。若いだけあって、その行動力は素晴らしい。本書で展開される彼の主張は単なる机上の空論ではない。豊富なデータによる裏付けももちろんだが、イギリス、アメリカはもとより、ポルトガル、モンゴル、ポーランドに足を運び、「食べ物を入手する」という行為にさまざまな立場で関わる人々や、動物と人間の関係についての研究に従事する人々に得意のインタビューを行い、あるいは自身が屠殺場で働き、ニジマス釣りをし、シカを撃つ、という体験をした中から直接得られた洞察が彼の主張を支えている。

 彼が若くしてこの本を書いてくれたことが私は嬉しい。環境問題について書かれた本を読んだり訳したりするたびに、頭のどこかに、自分があと30年若くなくてよかった、地球がめちゃくちゃになる頃まで私は生きていない、逃げ切れてラッキーだった!と思っている自分がいる。どちらかと言えば環境問題に関心が高いつもりではあるし、環境をこれ以上破壊したくない、今かろうじて残っている自然を(動物も植物も含めて)このまま残したい、と思う気持ちはもちろんあるけれど、結局我がこととしてあまり切実には考えていないのかもしれない。だがマンスの世代以降の人たちにとっては、それは自分が直面せざるを得ない火急の課題である。私たち「大人」が地球にしてきた仕打ちに、グレタ・トゥーンベリの世代が怒るのは当然だ。

 私が本書で特にハッとさせられた一文に次のようなものがある。

僕たちは、なぜベジタリアンなのか、と人に尋ねるのではなくて、どんな大義のために肉を食べることが必要なのか、と訊くべきではないだろうか?(68ページ)

 そうなのだ。私たちはみな、自分はなぜ肉を食べるのだろう、と考えてみる必要がある。本文中にもそれに対する答えはいろいろ出てくるし、たとえば『動物の解放』の著者であるオーストラリアの哲学者ピーター・シンガーの、「昔から肉が、蛋白質とビタミンの供給源として広く普及していること。文化的生活の大きな一部であること」という言葉が引用されていたりもする。蛋白質とビタミンの供給源が他にもあることは明らかだ。では仮に大きな文化的変容が起こって生き物を食べないことこそが「文化的生活」になったとしたら、私に肉や魚を食べなければいられない必然性はないのである。そうして、何が「文化的」な所作であるかなんて、何かのきっかけであっという間に変化する、ということは、ここ10年あまりの間にLGBTQをめぐる人々の考え方に起こった変化を見れば明らかだと思う。だったら私たちは、動物を食べないことこそが文化的であるという「気分の創造」に積極的に加担することで、未来の世代だけでなく、自分たち自身も救うことになるのではないか? 要するに、仲間をどんどん増やすことが文化を変えるのだ。

 面白いことに、今日こそはあとがきを書かなければ、と思っていたまさにその日に、たまたま仕事で出席した会議のケータリングをした人が、プラントベース・フード専門のセレブリティ・シェフだった。もちろんその人はこの本のことは知らない。ヴィーガニズムについてレクチャーするためにそこにいたわけでもない。でも、自分の料理を紹介しながら、今この時代にプラントベースのシェフであることほどエキサイティングなことはない、とその人は言った(本書に登場するミシュランの三つ星シェフも同じことを言っている)。全国を飛び回って有名人のためにケータリングを行っている彼女は、自分自身の経験から、(少なくともアメリカの東西の沿岸沿いの都市部では)ベジタリアニズムやヴィーガニズムへの関心が急速に高まっていることをひしひしと感じているという。本書に登場する肉の代替品、インポッシブル・バーガーも話題に出た。

 帰りに早速、バーガーキングに立ち寄って、インポッシブル・フーズ(本書122ページ参照のこと)がつくる、植物性蛋白質をベースにした「インポッシブル・ワッパー」を注文した。家に持ち帰り、おそるおそる食べてみたそれは、普通に美味しいハンバーガーだった。

 彼女の言葉、そしてインポッシブル・ワッパーの美味しさに、私は勇気づけられている。私は今すぐにベジタリアンやヴィーガンにはなれないかもしれない。でも、肉を食べない(食べなくても他に美味しいものが食べられる)という選択肢があったら、肉を食べないことを選ぼうと思う。そして、本書を読もうかどうか迷っている友人・知人には、読みたくないかもしれないけど、そして肉を食べるか食べないかはあなたの自由だけど、事実を知っておくだけ知った上で決めたほうがよくない? だからよかったら読んでみない?と言ってみようと思っている。反対意見があってもいい。この本が物議を醸すことを私は願う。そしてもう一つ、読後頭から離れないこの言葉を紹介しておきたいと思う。

オックスフォード大学の哲学者、トビー・オードは、人類が絶滅する確率は、20世紀中は100分の1だったが、現在は6分の1であると言う。これは、種の生き残りを賭けたロシアンルーレットなのだ。(329ページ)

(後略)

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