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月の科学と人間の歴史―訳者あとがき

月を見上げたことのない人はいないだろう。1歳か2歳の幼い子どもでも、夕闇が迫る雲のない空に浮かんだ美しい三日月や満月をじっと見つめるし、大人になっても、ふと見上げた空に月があれば目にとめる。

だが著者が言うように、「望遠鏡越しに月を見て息をのむような経験をした人は、ましてや月のリズムを理解するために時間を割いたことがある人は、いったい何人いるだろうか。月旅行が現実味を増しているにもかかわらず、現代人は月との触れ合いをなくしてしまった」。もちろんアマチュア天文家やカメラ愛好家など、高い倍率の望遠鏡を使って熱心に月を観測し、日々鮮明な画像を残している人たちも数多くいる。それでも大半の人々は、空にあるのが当たり前の月を、ほとんど気にせずに暮らしている。

訳者自身も本書に出合うまでは、多くの人たちと同様、月食があるとニュースで知った特別な夜や、たまたま目に入った月を「きれいだな」と眺める機会のほかは、その存在についてほとんど考えずに過ごしてきたように思う。本書はそうした多くの人たちに、かけがえのない月の存在を思いださせてくれる1冊だ。

ラスコーの洞窟に描かれた先史時代の人々が見た月をめぐる第1章で、その時代から今までずっと同じ月が空にあるという思いに導かれ、29.5日間にわたる月の1か月の満ち欠けを詳しく描いた第2章で、見ているようで見ていなかった月の真の姿に触れる。1日ごとに次々と夜明けを迎える月の海やクレーター、山脈の光景に、圧倒されるばかりだ。

その後は、神話の世界や古代文明にとっての月、月や星を中心とした宇宙をめぐる古代の賢人たちの思索、月の姿を紙の上にとどめようとした人々の競争、次々に登場する天才たち、そして望遠鏡や写真などの発明に思いをはせているうちに、時代は現代に入る。

最初に起きたムーン・レースは月面地図製作の一番乗りを競うものだったが、第2のムーン・レースでは冷戦時代の米ソ両陣営が月面への一番乗りを競った。宇宙を目指して次々とロケットを発射した両国の競争と、アポロ11号の成功で人類が月面に刻んだ第一歩は、まだ私たちの記憶に新しい。その時代、奇しくも米ソ両国にひとりずつの天才がいて、互いを直接知ることもなくロケット開発にしのぎを削っていた事実は、人の運命の不思議さ、彼らの運命を導いた月の存在の不思議さを思わせずにはおかない。

また、月に水が存在する可能性が浮上したことにより、再び月探査が活気を帯びてきている。月の未来の姿は地球に資源を供給する基地なのか、それとも火星行きを目指す中継基地なのかも、気にかかるところだ。

このように私たちの文明に大きな力を及ぼしてきた月は、いったいどのようにして生まれたのだろう? 諸説あるなか、最新の巨大衝突説とそのシミュレーションは大きな説得力をもっている。実際にふたつの天体の衝突によって今の姿の地球と月とが生まれたのなら、そして絶妙な大きさの衛星となった月が地球の身代わりとして小惑星や巨大隕石の衝突を受け止めてくれたのなら、ここでさらに大きな運命の不思議さに直面する。

およそ44億年前からずっと地球の空に浮かぶ月は、およそ5億年前の複雑生命の誕生も、たった20万年前のホモ・サピエンスの誕生も、ずっと見守ってきた。そして今、月と太陽の見かけの大きさがほぼ同じで、金環日食という美しい現象を私たちに見せてくれる不思議。

こうして本書は、月の壮大な物語をあますことなく読者に伝えてくれる。読後にはきっと、月を見上げる自分の目が大きく変わっていることに気づくだろう。訳者自身、今では月の存在が気になってしかたない。満月や新月の日付を毎月確認するし、ことあるごとに月を探し、しばらくのあいだ見つめる。家にあった子ども向けの天体望遠鏡を満月に向けてもみた。友人のまた友人にあたるカメラの達人が撮影したストロベリームーンを、携帯電話の壁紙に設定して毎日眺めている。携帯画面の満月で、「ティコ」クレーターや「コペルニクス」クレーターが明るく輝いている。

読者のみなさんにも、本書を読んで月を見る目が変わったこと、宇宙に浮かぶ孤独なオアシスである地球と40億年以上もともに歴史を刻んできた月の運命に思いを巡らすようになったことを実感していただけるなら、訳者としてとても嬉しく思う。

本書は、デイビッド・ホワイトハウス著、 "The Moon: A Biography" を翻訳したものだ。著者はイギリス在住で、マンチェスター・ビクトリア大学で天文物理学の博士号を取得した後、BBC科学担当記者、BBCニュースオンライン科学担当エディターなどを経て、現在は科学を中心としたジャーナリスト、ライターとして活躍している。ジョドレルバンク天文台やNASAで働いた経験ももち、王立天文学会の会員にもなっている。子どものころ抱いた天文への興味を今もなおもちつづけ、天体や宇宙探査についていくつもの著書を生み出している。月についてのすべてを緻密に、そして楽しく語る視線は、この著者ならではのものだろう。

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