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家中・足軽の幕末変革記―はじめに

 本書は、仙台藩士山岸の『山岸氏御用留』(以下『御用留』という)を現代語訳し、それに解説を加えたものである。

 山岸は、知行高617石の無役の給人(きゅうにん)(知行を与えられた武士)である。給所(知行のある所)は桃生(ものう)郡深谷前谷地(ふかやまえやち)村(現・宮城県石巻市前谷地)、同郡鹿又(かのまた)村(現・石巻市鹿又)、栗原郡堀口村(現・宮城県栗原市志波姫堀口)、牡鹿(おしか)郡真野(まの)村(現・石巻市真野)、同郡高屋敷(たかやしき)村(現・石巻市蛇田)の五ヶ村に与えられた。

山岸の家臣団は12人(家中3人、足軽9人)。全員が在郷屋敷のある前谷地村居住であった。家臣団の人数は幕末まで200年余の間ほとんど変化しなかった。

『御用留』を記録したのは、家中筆頭の御用前たちである。現存する『御用留』は寛政12年(1800)から文久元年(1861)まで62年分である。その間、8人の御用前が書き継いでいる。

 御用留とは「御用を書き留めたもの」、すなわち「公務の記録」というほどの意味である。内容的には、家中・足軽の人事に関する記録と給所支配に関する記録に分けることができる。前者では、家柄を重視する人事から実務能力重視の人事へと移行していく様子が読み取れる。後者では、山岸が1830年代の天保の大飢饉以降農村の復興を支援すべく農民とどのように向き合ったかがわかる。

なかでも「地肝入」(給所の管理を委託された百姓身分の者)と御用前との往復文書が注目に値する。地肝入が村肝入と類似の権限をもつ存在であったこと、給人の金融に深く関わったこと、年貢徴収のほか、入会山の管理も行っていたことなど、これまであまり知られることのなかった地肝入の役割が見えてくる。

 山岸の家中・足軽は御用前を含めて全員基本的には農民である。こう断言すると、「陪臣も武士である」との反論があることは承知している。たしかに藩士山岸の家中・足軽は伊達氏の陪臣として武士身分を公認され、苗字帯刀など武士の特権を誇りに生きていた。行政的にも一般農民とは別扱いであり、山岸の管理する人別帳に登録され、事件を起こしたときにも刑罰の法的な建て付けが異なった。したがって、家中・足軽が法制的に武士身分であることを否定するつもりはない。

 しかし、彼らの生活実態は農民とほとんど変わりがなかった。彼らは自分の家屋敷と田畑を所持し、田畑を自ら耕作し、山岸に年貢を納めていた。山岸から与えられる役料はごくわずかであり、生活の基盤は農業であった。親戚には百姓身分の者が多く、陪臣と百姓身分の者との結婚や養子縁組が日常的に行われた。仙台藩は陪臣と百姓身分の者の縁組について何ら規制をしなかった。

 家中・足軽は農民としての側面と武士としての側面を併せ持つ存在であったが、研究者の多くは彼らを基本的に武士と捉えて資料を解釈してきた。『御用留』にも「御家老」「御用前」などの役職名とともに「知行」「改易」「加増」などの武家用語が頻出するので、いきおい彼らを「武士」と捉えて解釈してしまいがちになる。

ところが、「加増」されたのに「所付け」がない、「改易」になった人物が一年も経たないうちに復活する、「知行」にも年貢が賦課されるなど、封建制の常識では説明がつかない記録が多い。つまり、『御用留』を記録した御用前は強烈な武士意識から敢えて「知行」「改易」「加増」などの用語を使用したのである。武家用語を使用したからといって、彼らが武士としての実態を備えていたとはいえない。資料に即して家中・足軽の実態を観察すれば、彼らは農民と同一地平にあると言わざるを得ない。彼らをあたまから武士と捉えて資料解釈することは、歴史の真実を見誤ることにつながる。

 仙台藩には1万人の藩士(直臣)と2万4000人の家中・足軽(陪臣)が存在した。したがって仙台藩の武士身分の7割を占める家中・足軽の実態がどのようなものであったか、資料に基づいて明らかにすることは歴史研究として重要であると考える。とりわけ幕末の封建秩序の崩壊過程を、家中・足軽と御百姓の関係に焦点を当てて検討することによって、社会の最底辺から身分秩序が崩壊していく事実を明らかにしたい。

『御用留』は、仙台藩北部一帯で起きた寛政の大一揆(1797年)の直後に書き始められた。仙台藩は米を藩の専売品に指定し、年貢納入後農民の手もとに残った徳作米(余剰米)も藩が安値で強制的に買い付けて江戸で高く売り払い、財政赤字を補填した(買米制)。仙台藩北部一帯が買米制の対象地域とされたため、同地域の疲弊が甚だしく、農民の不満が爆発したのが、寛政の大一揆であった。

 ちょうどその頃、山岸家当主・孫一も農民からの借金が膨らんで、財政運営の「改革」を迫られていた。藩では一揆勢の要求を受け入れて郡村役人を一斉に更迭して、農政改革を村々に約束した。山岸孫一も藩の改革に影響されたのであろうか、その翌年「家柄の者」を御用前に任用する従来の人事を転換して、足軽出身の、算筆に秀でた鈴木可能を御用前に抜擢した。『御用留』は、この人事改革(人事騒動)を契機に書き始められた。

 本書の舞台となる前谷地村は元和2年(1616)から始まる大規模新田開発によって誕生した。山岸は1650年頃に前谷地村に入植し、寛文七年(1667)検地を受けて295石余の知行を給付された。検地では実際に土地を耕作して年貢負担する者を登録したので、一人(一農家)当たりの耕作面積が平均化された。したがって、検地帳に基づいて機械的に年貢徴収しても不都合がなかった。

 ところが、17世紀後半から全国的に農民層が、富を蓄積する富裕層と困窮化する貧困層とに分解し始める。仙台藩でも18世紀に入ると農民層が階層分化して、検地帳に基づいた機械的な年貢賦課が実情に合わなくなる。年貢を賦課するにあたって農民一人ひとりの実情を考慮しないわけにはいかなくなったのである。そこで給人は、農民の中から地肝入を選任して、地肝入を通じて給所の管理を行うようになった。

 仙台藩では、寛政の大一揆を契機にして「寛政の転法」と呼ばれる農政改革が実施されたが、農民層の分解を押しとどめることはできなかった。とりわけ天保の大飢饉(1833~37年)は土地保有関係を根底から崩壊させた。大飢饉で打撃を受けた貧困層は借金が膨らみ、土地を手放して借金を清算する以外に方法がなくなったのだ。

藩も荒廃した農村を立て直すためには農家の借財整理が必要であると判断して、従来の土地保有に関する規制(農家一軒当たり所持高5貫文以内とする制限)を取り払ったので、一部の富裕層にますます土地が集中する結果となった。

 年貢の徴収がままならず窮乏化した給人の金主(貸し手)は、裕福な農民であった。山岸は、給所の前谷地村、堀口村、真野村、高屋敷村の農民から年貢を担保にして金を借りた。給人と富裕層の農民との力関係が逆転するようになると、武士の権威・権力が形骸化する。それに伴い家中・足軽の序列も変化する。幕末には家中・足軽・本百姓・水呑(みずのみ)という「身分」さえも曖昧になる。

 その結果、山岸家中の人事も家柄重視の考え方が影を潜め、実務能力に優れたものが役職を独占するようになる。

 仙台藩は明治を迎えるまで藩の行政機構が正常に維持され、治安は安定していた。南部藩(盛岡藩)のように農民一揆が頻発することはなかった。そのため政治の表面だけを見ていると、仙台藩内、とりわけ村社会においては戊辰戦争に敗れるまで旧態依然としていて、明治になって突然改革が始まったように見えてしまう。

実際、『宮城縣史2』(宮城縣史刊行會)や『宮城県の歴史』(山川出版社)などでは、幕末史を藩財政窮乏問題と尊王攘夷派と佐幕派の対立を軸に記述しているので、社会の底辺で人々の意識や人間関係がどのように変化したか、理解することができない。

 本書では『御用留』を中心に資料を丹念に読み解きながら、土地の保有関係や身分意識がどのように変化していくかを、見ていく。

 本書の構成について触れておく。本書は『御用留』を中心資料としているが、『御用留』に登場する人物は多岐にわたるので、年代順に記録を並べたのでは大変わかりにくいものになってしまう。そこで左のように再構成した。

 序章で前谷地村の誕生と仙台藩の地方知行(じかたちぎょう)制について見ておく。前谷地村の誕生では前谷地村の地理的条件と山岸家臣団について触れる。地方知行制では仙台藩の給所支配の仕組みについて解説する。

 第一章から第三章は、御用前を長く務めた鈴木家、西山家、斎藤家の親子三代記ないし四代記として構成した。

 第一章「鈴木家の幕末」は足軽から御用前に抜擢された鈴木家親子四代の物語である。鈴木可能は有能であるが故に身分制の壁を打ち破ろうともがき苦しむ。その子、貢は天保の大飢饉に立ち向かう。

 第二章「西山家の幕末」は代々御用前を務める「家柄の者」親子三代の物語である。能力主義の社会へと世の中が変わる中で、「誇るべき家」が解体に瀕する一家の物語である。

 第三章「斎藤家の幕末」は御徒組(おかちぐみ)から御用前に昇進し、近代的な行政マンに成長する親子三代を取り上げる。三代目斎藤友右衛門は山岸家最後の御用前として明治を迎え、版籍奉還の実務にあたった。

 第四章「前谷地村の事件簿」は、前章までの話からこぼれ落ちた出来事の中から、時代の変化を感じさせるエピソードを拾い集めた章である。

 終章「前谷地村の明治維新」では、山岸家中が版籍奉還と地租改正にどのように対応したか、また、山岸の金主、斎藤家が明治期に全国第二位の巨大地主に成長した経緯を取り上げる。

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