都市に侵入する獣たち―まえがき
数年前のよく晴れたある冬の日、私は荷物をまとめ、服を着替え、自転車に飛び乗って、職場から家に向かった。その日は金曜日で、週末を早く迎えるにふさわしいと思ったからだ。10年近くを費やした私の最初の本の最後の仕上げをちょうどしたところで、手が空いていたのだ。しかし、今のところ、私は午後の休暇を取ることで満足していた。
自宅へと向かう自転車道は、職場である大学のキャンパスから海辺を抜け、高速道路に沿って湿地を横切り、いくつかの小さな農場を回り、静かな郊外を抜け、にぎやかな繁華街へと続いている。この道は私の研究室から約1・6キロメートルのところでアタスカデロ川に合流する。アタスカデロとは、可愛らしくない場所を表す可愛い言葉である。スペイン語で「沼地」のような意味だが、この悲しい小川はその名にふさわしいものだ。砂利道と平行に流れるこの川は、小川というより運河のような形をしていて、不自然なほどまっすぐだ。鉄砲水対策のために、長い区間がコンクリートで固められている。しかし、ほとんどの日は、ぬるぬるした緑の岩の上を濁った水がちょろちょろ流れ、アスファルトのように真っ黒で生ぬるい淀みのあるドブ川と化している。
走りはじめて15分ほどで、小川にかかる橋を渡り、分譲地とゴルフ場の間を東に曲がった。その時、私の90メートルほど前を、何か変わったものが大股で横切った。小型犬くらいの大きさだったが、小さな丸い頭、とがった大きな耳、漫画のように大きな腰と、遠くから見ると、大皿のように平らで幅広の足をしていた。惰力走行で進みながら、私は容疑者リストをチェックした。シカ? いいえ。アライグマ? いいえ。スカンク? いいえ。コヨーテ? たぶん違う。イヌ? もしかしたら、イエネコ? 大きすぎるが、ネコのような動きをしていた。
その生物を見たと思しき場所に着くと、自転車を止め、茂みの中を覗き込んだ。私からわずか4・5メートル先に座っていたのはボブキャットだった。丸々と太った成熟個体で、豪華なまだら模様の毛に明るい緑色の目、そしてトレードマークの房がついた耳をもっていた。そのボブキャットは最盛期にあった。ボブキャットの体重は9キログラムにも満たないことが多いが、私をじっと見つめるその姿は、まるでライオンのように大きく見えた。私たちは数秒間、目を合わせた。2匹の哺乳類が互いに相手を見極めようとする古来の行為であった。
私は過去に二度、野生のボブキャットを見たことがある。一度目は、秋のさわやかな朝、夜明け直後のハイシエラの高山湖畔で。その斑点のある灰色のネコは、花崗岩の背景に完璧に溶け込んでいた。二度目は、暖かい夏の夕方、モントレーの丘陵地帯にある牧場で。この2匹目のネコは。周囲の小麦色によく似た黄褐色の毛をもち、草地の丘の上に立ち止まり、肩越しに私をちらりと見てから藪(やぶ)の中に消えていった。
ボブキャットにはこれまでにも出合ってはいるにもかかわらず、この3匹目のボブキャットとの出合いは驚きと新事実の連続だった。
これまで見たことのあるような野生の場所にいるボブキャットばかりをいつも思い描いていたので、驚いた。さらに驚いたのは、私が目撃したのは特別なことではなかったということだ。北アメリカの温帯から亜熱帯にかけて生息するボブキャットは、フロリダのエバーグレーズ、ケベックのノースウッズ、メキシコのソノラ砂漠など、大きく変化する生息地で生活している。ボブキャットは人間を避ける傾向があるのだが、彼らが好む餌にネズミなどの小型哺乳類が含まれるため、まれに郊外やその周辺に出没する。私の友人や同僚の多くは、以前に私の地元で彼らを目撃していた。どうやら、私はその存在を知った最後の一人のようである。
次に明らかになったのは、このことだ。私はそれまで10年間、絶滅危惧種――すなわち大まかな定義によればほとんどの人が見ることができない生物、その研究をしてきた。しかし、ここにこの野生の捕食者がいたのである。ある視点から見れば、アラスカヒグマやベンガルトラと同じくらい大胆で美しく恐るべき存在が、南カリフォルニアの郊外をうろついていた。それからの数日間、私は都市に棲む野生動物についていろいろと考えるようになった?あのボブキャットのおかげでこの本ができたのである。
また私は、自分が既存の思考パターンに陥っていたことに気づいた。何十年もの間、科学者や自然保護活動家の多くは、都市部とそこに生息する生き物を敬遠し、代わりにもっと遠隔地に生息する希少種に注目してきた。野生生物に関心をもつ人々は、都市を人工的で破壊的、そして退屈なものと考えていたのだ。そのような場所から学ぶことはほとんどなく、都市の中に救ったり養ったりすべき動物などいないと思われていた。野生生物保護団体が都市部に関心をもつようになったのは、ごく最近のことである。私と同じように、彼らも都市部に目を向けるようになるまでに長い時間がかかった。しかし、ついには、私もそうだったが、自分たちが発見したものにびっくり仰天したのである。
自転車道でボブキャットと出合ってから数年後、私が都会の野生動物を研究していると言うと、必ずと言って良いほど、その手の話が返ってきた。この本を書いたり、そのような話すべてを聞いたりしているうちに、あの出合いを注目すべきものにしたのは、それがめずらしいことではなく、ごく普通のことだったからだということがわかってきた。この後のページで私が目指すのは、このような状況にいたった経緯と、アメリカのあらゆる都市のほぼすべての住民が自分自身の野生動物の物語をもっているということの意味の両方を説明することである。
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