見出し画像

脳科学で解く心の病―まえがき

 私は生涯、脳の働きと、人類が行動する際の動機について理解しようと努めてきた。ヒトラーがウィーンを占領した直後に国外へ逃避したという少年時代の体験から、人類の実存に関連する大きな謎の一つに心を奪われるようになった。地球上でもっとも発展し、洗練された文化をもつ社会が、どのようにして突然、悪に向かって突き進むことができたのだろうか? 倫理的なジレンマに直面した人は、どのように選択をするのだろうか? 分裂した自己は、専門知識を備えた人々との相互作用によって癒やされるのだろうか? 私はこういった難問に取り組み、解答を得たいと願って、精神科医の道を選んだ。

 しかし、心の問題がいかに難解であるかを認識するにつれ、科学的な研究でもっと明確な答えが得られる問題に目を向けるようになった。非常に単純な動物の、ごく少数の神経細胞(ニューロン)に焦点をあてて研究し、やがて学習や記憶の基本的なプロセスのいくつかを発見した。私自身、研究を大いに楽しんできたし、他の人からも十分に評価してもらった。ただし、宇宙でもっとも複雑な存在である人類の心の探求において、私の発見はほんの小さな進展をもたらしたにすぎないことは認識している。

 心についての探求は、人類の誕生以来、哲学者や詩人、医師たちを魅了してきた。デルフォイのアポロン神殿の入り口には、「己を知れ」という言葉が刻まれている。ソクラテスやプラトンが最初に心の本質を考察して以来、あらゆる時代の思想家たちは、人類を人類たらしめている思考や気持ち、行動、記憶、創造力を理解しようと真剣に取り組んできた。近代までは、心の探求は哲学の領域に限定されていた。それを如実に表したのは、17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトの、「我思う、故に我あり」という言葉だ。近世哲学の道しるべとなったデカルトの宣言の意味するところは、人類の心は身体とは別にあり、身体とは無関係に機能する、という点にある。

 17世紀以降の重要な進展の一つは、現実はデカルトの宣言の逆であった、と認識されるようになったことだ。「我あり、故に我思う」のが実際なのだ。この認識の転換は20世紀後半に起こった。哲学者ジョン・サールやパトリシア・チャーチランドらが主導した哲学の学派が、心の科学である認知心理学と融合し、さらには両者が脳の科学である脳神経科学と融合したことでもたらされた。その結果、心に関する新たな生物学的な研究方法が誕生した。それまでとは異なる、心についての新たな科学的研究が前提とするのは、ヒトの心の動きは脳の一連のプロセスから生じるという原則である。脳は驚くほど複雑なコンピューターだ。我々が外部世界をどのように知覚するのかを左右し、内的な経験を生成し、行動を制御する。

 ヒトの身体的形態の進化に関する知的探求は、チャールズ・ダーウィンの1859年の洞察から始まった。新しい心の生物学は、ヒトの進化についての探求の最終段階に位置づけられる。ダーウィンは『種の起源』で、ヒトは全能の神によって創造された他の動物とは異なるユニークな存在ではなく、より単純な動物の祖先から進化した生物である、という見解を披露した。そして、ヒトの行動が本能に基づく行動と学習に基づく行動の組み合わせであるという点も、より単純な動物の祖先と共通していると指摘した。ダーウィンは、1872年の『人及び動物の表情について』でこの考えをさらに精巧に練り上げ、より革新的で深淵な考えを提示した。人類の精神的な活動のプロセスも、身体の形態的な特徴と同じように、動物の祖先から進化したという。つまり、ヒトの心は霊的な存在ではなく、物理的な用語で説明することができるというのである。

 私を含め、脳科学者はすぐに気がついた。身体的な危害や、群れの中での社会的な地位の低下といった状態に対して生じる恐怖や不安など、ある意味でヒトと似た感情(情動)をより単純な動物がみせるなら、動物でヒトの感情の性質を研究できるはずであると。その後、ダーウィンが予測したように、原始的な形態の意識も含め、ヒトの認知機能ですら動物の祖先から進化したことがモデル動物による研究で明らかになった。

 精神的な活動のプロセスにおいて、ヒトがより単純な動物と共通する特徴をもっているために、ヒトの心の働きの根本について動物を使って研究できるのは幸運なことだ。なぜなら、ヒトの脳は驚くほど複雑だからだ。中でも自己についての認識はもっとも複雑で、またもっとも神秘的である。

自己認識は、自分は何者なのか、なぜ存在するのか、という疑問を抱かせる。人類の起源について語っているさまざまな創造神話は、宇宙のあり方や、その中で人類がどのように存在するのかをきちんと説明したい、という人類の欲求から生まれたものだ。自らの存在にまつわる疑問への答えを探し求める行為そのものが、我々を人類たらしめている重要な要素である。ニューロンの複雑な相互作用がどのように意識や自己認識を生じさせているのだろうか。これは、脳科学における最大の未解決の謎だ。

 どのようにして脳内の物質から人類の本質的な性質が生じるのだろうか。脳内には860億のニューロンがある。自己を意識し、驚くほど迅速かつ正確にコンピューターのような偉業を成し遂げられるのは、ニューロン同士が正確につながっており、コミュニケーションをとっているからだ。私の研究チームは、単純な海洋生物の一種、無脊椎動物のアメフラシを使った研究で、「シナプス」と呼ばれるニューロンとニューロンのつながりが、体験によって変化することを明らかにした。シナプスが変わることによってヒトは学習したり、周囲の環境の変化に適応したりすることができる。しかし、ニューロン間のつながりはけがや病気によっても変化する。さらに、成長の過程で、つながりが正常に発達しない、あるいは、つながりがまったく形成されないこともある。そういった事態に陥ると、脳の働きは混乱をきたす。

 脳機能の混乱、つまり脳の障害についての研究は、精神が通常はどのように機能しているのかを解明するための新たな洞察を次々ともたらしている。とくに最近は、かつてないほどその傾向が著しい。複数のニューロンがシナプスを介して複雑につながり合った神経回路の研究が脳の障害を理解するのに役立つのと同じように、自閉スペクトラム症や統合失調症、うつ病、アルツハイマー病などに関する研究は、社会的な交流や思考、気持ち、行動、記憶、創造性といった活動に関与する神経回路を解明するのに有用な知見を与えてくれる。コンピューターの部品が壊れたときにその部品のになう本来の機能が明らかになるように、脳の神経回路も、衰弱したり正しく回路が形成されなかったりするときに、その機能が劇的に明白になる。

 脳内の精神的活動を生みだすプロセスの混乱は、自閉スペクトラム症やうつ病、双極性障害(躁うつ病)、統合失調症、アルツハイマー病、パーキンソン病、そして心的外傷後ストレス障害(PTSD)といった、人類を苦しめる精神疾患の原因となる。本書は、そういった脳の混乱がどのように生じるのかを探求する。脳の障害が生じるプロセスを理解することは、脳の健全な機能についての理解を深めるために欠かせない。新しい治療法を見つけるためにも不可欠である。その点も、取り上げる。

 また、正常な範囲内での脳の機能の違い、たとえば発達の途上で生物学的な性別(セックス)や社会的な性別(ジェンダー)が決まっていく際に脳内ではどのような差異が生じているのかを調べることが、脳の機能をより深く解明するためにいかに重要であるかについても示す。

 そして最後に、心や精神的活動についての生物学的研究は、創造性や意識に関する謎も解き明かし始めていることを描く。とくに、驚くべき創造性を発揮する統合失調症や双極性障害の人について触れ、彼らの創造性は、誰もがもつ脳と心、行動の関係に由来することを明らかにする。意識や、意識の障害についての最近の研究は、意識が脳の単一で不変の機能ではないと示唆している。異なる環境では異なる意識状態が生じる。それだけでなく、過去の科学者が発見し、ジークムント・フロイトが強調したように、意識下の知覚や思考、行動は、無意識の精神的プロセスによって形成されている。

 大局的にみれば、心についての生物学的研究は、脳に関する理解を深め、脳の障害に対する新しい治療法の開発への期待をもたらすだけにとどまらない。心に関する生物学の進展は、新たなヒューマニズム創生の可能性をひらく。自然界に焦点をあてる科学と、人類の経験にどのような意味があるのかという点に焦点をあてる人文科学の融合である。脳機能の差異についての生物学的洞察に基づく、新しい科学的なヒューマニズムは、自己や第三者に対する見方を根源的に変化させるだろう。我々は自己意識により、すでに自分が独特の存在であると感じているが、今後は、生物学的にも個性を確認できるようになる。そして人間性について新たな洞察が生まれ、他の人とも共通している人間性と、一人ひとりが独自にもつ人間性の両方をより深く理解し、それぞれの真価を認めることができるようになるだろう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?