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食卓を変えた植物学者―プロローグ

 アメリカ人として恥ずかしいと思うことの一つは、アメリカがどれほど肥大した自尊心と権力を持っていようとも、「アメリカの」という形容詞が使われるようになってから大して時間が経っていないということを、しょっちゅう思い知らされることである。数年前、僕は気づいたのだ――移民がアメリカにやってきたのと同じように、僕たちの食べ物もまた海外からやってきたのだということに。

 ある朝、机に向かって『ナショナル・ジオグラフィック』誌に寄稿する記事のためのリサーチをしていたとき、一般的な農作物が最初に人間の手で耕作されたのがどこだったかを示す地図をたまたま見つけた。有名なフロリダ州のオレンジが最初に栽培されたのは中国。アメリカのどこのスーパーマーケットにもあるバナナはもともとはパプアニューギニアのものだ。ワシントン州が昔から受け継いできたものだと主張するリンゴはカザフスタンから来たものだし、ナパバレーのブドウが初めて育ったのはコーカサス地方である。これらがいったいいつ「アメリカの」作物になったのかを問うのは、イギリスから来た人たちがいつアメリカ人になったのかと問うこととちょっと似ている。一言で言えば、それは複雑なのだ。

 だが、どんどん深く掘り下げていくにつれて、突如それが鮮明になる瞬間があるらしいことがわかった。蒸気船が突如として港に姿を現すように、新しい食べ物がアメリカの海岸に到着した歴史上の一点である。19世紀後半――「金ピカ時代」と呼ばれる、アメリカ資本主義が成長した旅行の黄金期――は、アメリカが一気に成長した時代だった。世界各国への航海という道が開かれ、そのおかげで、デヴィッド・フェアチャイルドという若き研究者が、新しい食物や植物を求めて世界を歩き回り、それらを自国に持ち帰って市場を活気づかせたのである。フェアチャイルドは世界を一変させる革新技術の誕生を目撃し、科学者や上流階級の人間がもてはやされたこの時代、血筋ではなくその飽くなき好奇心によって支配階級の仲間入りを果たした。

 今思えば、僕がこの物語に取り憑かれたのは当然のことだった。生まれてこのかた僕は果物に夢中で、それが熱帯のものであればあるほど良かった。子どもの頃両親が、僕と妹をハワイに連れていったことがある――「いろんな経験をしないと」というわけだ。僕は丸々2つパイナップルを平らげ、おかげでマウナロア山よりもカッカと燃えるような腹痛を起こした。家ではときどき母が、マンゴーを縦にスライスしてくれた。僕がスライスを食べている間に母は種の周りを少しずつ削っていく。デンタルフロスの有り難みを教えてくれたのは歯医者ではなくてマンゴーだった。

 大学在学中は農園で働き、暑さの中、果樹園の木々の間を歩いてモモの等級付けをした。目的は、次のシーズンに優先的に栽培する優れた品種を見つけることだった。果物に優生学を適用したわけだ。だが作業に集中するのは難しかった。仕事の時間が終わる頃には、何十個も食べたモモの果汁でシャツはぐしょぐしょ、大抵はその後に腹が痛くなった。政治記者としてワシントンDCに移る前に、友人が彼の農場に就職しないかと言ってくれた。果実を収穫し、北カリフォルニアの、一種のファーマーズ・マーケット─―「変種」とか「テロワール」みたいな言葉を使う人たちが集まるところ─―で売る仕事だった。僕は夢を追うためにその申し出を辞退したが、その後何年も、連邦議会聴聞会に出席しながら、ピックアップトラックの窓を開け放って人気のない農道を走るもう一人の自分を想像した。

 数年後、フェアチャイルドのことを聞いて僕がまず最初に思ったのは、こいつは果物を仕事にしたんだな、ということだった。それもおなじみの作物だけではなく、それまで誰も食べたことがなかったようなものを。友人たちに、アメリカに初めて公式にアボカドを持ち込んだのはフェアチャイルドだという話をすると、みんな彼を聖人候補に挙げたがった。僕は、フェアチャイルドが持ち込んだ人気の作物─―デーツ、マンゴー、ピスタチオ、エジプト綿、ワサビ、桜の花─―の話をしてみんなが驚くのを見るのが楽しくなっていった。必ずと言っていいほど誰かが、「へえ、誰かがそれをアメリカに持ってきたなんて、考えたこともなかったな」というようなことを言った。僕たちは、地面から生えてくる食べ物を、人間が生まれる前からもともとその環境にあったものであり、生の地球そのものとのつながりだと思いがちだ。だが、僕たちが食べているものは、人の手で選ばれ、管理されたものであるという意味で美術館の展示と変わらないのだ。フェアチャイルドは、真っ白なキャンバスに新しい色や質感を加えるチャンスを見出したのである。

 フェアチャイルドの生涯は、20世紀初めに世界との関係を花開かせたアメリカの物語だ。彼は50か国以上、そのほとんどを船で訪れた。飛行機や自動車が地球を狭くする前の話だ。彼が植物採集に情熱と関心を注いだのは、僕たちが今のように食べ物に執着したり、食べ物の栽培、輸送、消費が経済、生物、環境に影響を与えるようになる以前の出来事である。フェアチャイルドはまさに、旅をすることへの尽きせぬ欲求を絵に描いたような人物だった。「そこには何があるのか?」という問いに答えを見つけることが、彼のライフワークだったのだ。

 と同時に彼の物語は、世界に対するアメリカの興奮が、海の向こうの未知のものに対する嫌悪へと変化するなか、失望と波乱に満ちたものだった。フェアチャイルドの運命はアメリカのそれと一つであり、第一次世界大戦勃発でアメリカの注意が散漫になると、フェアチャイルドの才気は、恐怖に縮こまっている国家による厳しい批判の的となった。

 彼は多弁な男であり、そしてそのすべてを書き記した。僕は彼が書いたラブレターを、下書きの原稿を、封筒やナプキンの裏に書き留めた思索の断片を読んだ。彼がアレクサンダー・グラハム・ベルやセオドア・ルーズベルトやジョージ・ワシントン・カーヴァー[訳注:アメリカの植物学者]に会ったときの回想も読んだ。そして、自分のことが本になり、功績を称えられるのを、彼はものすごく嫌がるだろうと感じた─―もっとも、彼の逸話の多くがそうであるように、彼の生涯は、彼以外の人たちがした仕事と、他人のお金と承認がなければ実現しなかったわけだが。

 フェアチャイルドの物語には、今では存在し得ない男とその時代を目にする哀しさが漂う。文化と科学と通信が互いにつながり合い、一日に何千キロも移動が可能な世界で、人がこう問うのは当然だ─―いったいこの世には、未開の地は残されているのだろうか? フェアチャイルドならなんと答えるだろうか、と僕はさんざん考えた。彼は自分の死を、それ以前の時代の大いなる探索の終点と考えただろうか?

 その後、数年前の夏のある日、僕はフロリダの、フェアチャイルドの孫にあたる81歳のヘレン・パンコーストの家にいた。ヘレンはかつて、祖父とともにマイアミからノバスコシアまでの長いドライブに出かけたものだった。そしてその間フェアチャイルドは彼女に数々の質問を浴びせ、彼女が好奇心を持つことを奨励したのだ。今ヘレンは、生まれ育った家からほんの数ブロックのところに住み、彼女の家の庭には、フェアチャイルドがインドネシアで夢中になったヤシの木が植わっている。僕はヘレンに、ずっと気になっていたことを尋ねてみた─―答えに溢れたこの世界にフェアチャイルドが生きていたら、それでもまだ彼は新しい質問を見つけるだろうか? ヘレンは僕の腕を掴むと僕の目を正面から見つめた。

「祖父は言ったものよ、『知っていることで満足してはいけないよ、まだこれから知ることのできることがどれほどあるかに満足しなさい』と」

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