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庭仕事の真髄―訳者あとがき―庭のように手入れの行き届いた心の話

 著者スー・スチュアート・スミス氏が自分の庭の話をしているところが、とても好きだ。そこから、ゆっくりと、あるいは高速のままに心の世界へとカーブを切って入っていくのは、なんて美しい文章の運転技術だろう。目の前の庭から目をそらせる暇なく、心の世界の話になるのは、庭にいると無数の通路が心の世界へと通じているからなのだろう。外にあると思っていた世界は、中の世界であり、中の世界の話だと思っていると、いつの間にか外の世界の話につながっている。庭は人間の身体にも心にもある。飛躍のようだけれど、ここを渡っていくために、著者はさまざまな歴史的研究の成果、理論的な根拠づけ、治療のためのガーデンでのインタビューや臨床研究を各章で披露してくれている。私たち自身の中にある庭をどのように耕し、種を蒔き、雑草を抜いて、美しい花が咲いて、たくさんの実りを生む庭にするのか。植物が折れたり萎れたりした時にはどうするか。原著のタイトルはWell-gardenedMind だ。庭に対するように、心を耕し、整える。生老病死にどうつき合っていくか、生き方の書だが、科学の書物だ。

 南アフリカの潮だまりに生息し、ガーデニングをするカサガイ(第6章)の話も非常に興味深いと思ったが、脳内の免疫担当細胞のミクログリアが、本物の庭師のように、指のような突起を使って毒素を除去し、炎症を抑え、余分なシナプスや細胞を雑草のように取り除いてきれいに整え、さらに神経細胞やシナプスの成長を助けたりしているとは驚きだ。ミクログリアや脳細胞が出すたんぱく質の脳由来神経栄養因子(BDNF)が、脳神経細胞に対して肥料と同種の効果を発揮しているという(第2章)。

こうした除草作業や剪定、施肥によって、脳は細胞レベルで健康に保たれる。健康は受動的なプロセスではなく、心もまた庭のように手入れをされなければならないというわけだ。

 庭のある今の家に引っ越した時、私は世話が大変だから花なんか植えないと言っていた。ところが、最初の秋が深まるころ、一年草の種まきが大好きな妹はそんな姉のところに、自分が蒔いて育てたビオラなどの苗をたくさん送って、植え方の手順まで指南してきた。こうして、鉢やプランターはもちろん、園芸土も何もなかったところから始まったガーデニングだったのだが、師匠は春と秋に一年草の花の苗を届けてくれるようになり、すぐに春のビオラとアリッサム、夏のニチニチソウが私の庭の定番となった。そして今では、来年は何色にしようかと種苗会社のカタログを取り寄せて相談するようになった。

 春になって驚きの変化を遂げる植物。それは時間がくれる贈り物だ。私が好きな庭の季節は、秋の終わりのチューリップの球根を植え終わったころだ。ビオラとアリッサムのまだ小さな苗も植えつけてしまえば、あとは賑やかな春を待つだけだ。よほど乾燥しない限り真夏のように朝晩の水やりもいらない。

雑草も勢いを止めている。冬の間にもたくさんの花をつけるパンジーもあるけれど、冬に花はなくてもいいのではないかと思う。花のない季節があって初めて、雑草のスミレがちらほら咲き始めると主役になれる。スイセンやチューリップが地面を押し上げてくるのを見守るのは楽しい。成功間違いなしの春の庭だ。

 仮想現実と作り物の現実が溢れる現代にあって、庭は私たちを目の前の現実に引き戻してくれると著者は述べている。両者の間の一番の違いは、本物の現実には死ぬ時が来るということだ。庭の現実は、枯れたり、風で折れたり、根腐れもあれば、虫害もある。けれど、まあ仕方ないや、と流していける現実だ。結局のところ日当たり、水はけを考えないで植物を植えてもうまくいかない。環境を知ることが必要だ。すぐにわかるはずもないから、庭は寛大で人間に学ぶチャンスをくれる。著者の言う通り、次のチャンスがある。翌年の同じ季節にまたやってみればいいのだ。私のガーデニングの師匠は「たくさん失敗をしてください」と初めから冷ややかだったが、このごろ少しはわかってきた。庭の日照のことだけではない。自分のこともだ。時間は直線的に流れて後戻りできないのではない。庭の時間は循環する時間であり、庭は循環する物語を与えてくれると著者は言う。生から死へ、死から生へと繰り返す物語だ。

 子どもたちがみんな巣立って、それぞれに次の世代にかかりきりになっている姿を眺めていると、どこかにいつも私を見つめている視線を感じる。視線の主は老いと死だ。仮想現実では見なくてよいものだが、人間の自然には老いと死がついてくる。逃げきることはできない。これをどう乗り越えるのか。

著述家ダイアナ・アットヒルは、年をとることは決して簡単ではないが、年をとってできなくなることを受け入れる術を手に入れていた。できないことがあっても、残りの人生がまったく魅力を失ったりはしないと知っていた。老年になっても手放す必要のない喜びを花や木が彼女に与えたのだという。また、フロイトの最晩年の様子は後続の人間たちに道しるべを残してくれている。もう少し先の未来のことを、庭はゆっくりと私たちに教えてくれるようだ。

 著者は言う。ガーデニングには、常に人間よりも大きな力が潜在していると。庭自体が生き物で、植物のケアをする時、そこに相互に影響し合う関係が発生するのだという。人間は自然を変えることはできるが、完全に支配し管理するのは不可能だ。この自然とは、人間の外にある緑の自然ばかりではない。

人間の中にある自然もそうだ。そこをわきまえないと、英国の探検家で植民地主義者のジェームズ・ダグラスの北米大陸ブリティッシュ・コロンビアでの失敗のような悲惨な結果となる(第6章)。

 自然とのギブアンドテイクに信頼をおいて、ケアする人はちょっと下がったあたりに位置どりしていれば、自然は驚きの姿を見せてくれる。ニチニチソウがつぼみを開くところが私は好きだ。花びらの一枚一枚が隣の花びらの下に半分をきれいに挟まれたまま、花の先端からそっと開いていく。前の住人が置いていったクレマチスは折れたり裂けたりしたボロボロの古い枝から新芽を伸ばし、驚くほど大きな美しい青い花を咲かせる。クレマチスの開花はちゃんと目撃したことがないが、音でも立てて開くのではないかと楽しい空想をする。散る時もじつに潔く散るが、そのあとの幼児のつむじのような姿も見物だ。

 その昔、新幹線ができたころの話。それまで出張先で一泊して翌日帰っていたところが、新幹線ができて、速いね、便利だね、と喜んでいたのも束の間、日帰りして帰社し、そのままもう一仕事できることになり、結局前よりも仕事が増えて忙しくなってしまったという話は有名だ。2020年の春先、感染症の蔓延で働き方がすっかり変わった。私の場合も、ほぼすべての仕事がオンラインになった。通勤時間が不要になり、少しは時間ができたと思いきや、職場で終わっていた仕事は、在宅勤務という「持ち帰り」となり、通勤電車の中での読書と仮眠の貴重な時間が消えた。紙の書類でもらっていた連絡は、勤務時間外にもメールで届くようになり、時間にかかわらず返信する。一方で、新しいツールはそれなりに面白く、仕事の内容はついつい盛りだくさんになってしまう。そのうちに、その昔の話と同じことを考えるはめになった。人は便利な道具で幸せになるのだろうかと。

 ファストフードにワンクリックで翌日配達など、早ければ早いほどよいという毎日、大量の新情報を吸収することが求められている今、何が適切なことなのか判断したり、経験したことを消化したり、理解したりする時間が不足している。これは本当だ。私は「第11章 庭の時間」を昨年からの自分の働き方を重ねつつ読んだ。デジタルな世界では、人は今自分がいる場所に完全に存在していないと著者は言う。自分の半分はどこか別の場所にいるといった状態だと。仕事時間と休息時間の区別はしだいに侵食されてきた。睡眠時間は、脳内のミクログリアが疲労回復のための剪定や雑草取りをする時間だという。

この最も基本的な休息と回復のための時間が不足している人が多い。これも私だ。精神分析医、レイチェル・カプランとスティーブン・カプランの注意回復理論によれば、自然に囲まれた環境は課題集中型の思考に休息を与え、精神的なエネルギーを回復させる効果が大きいということだ。確かに、庭で過ごす時間の質が変わった気がする。庭は基本的な生活リズムへと引き戻してくれる場所だという。植物の速度で生きることができる場所だからだ。

 秋の終わりには小さな弱々しい苗だったビオラは、春たけなわの四月半ばから五月には見事にこんもりと大きな株となって、無数の花をつける。水も液肥もたっぷりあげるから、あとからあとから花をつけるが、続々と枯れ花も出る。これを丁寧に摘み取るのが、近年は楽しくてならない。株の中のほう、葉と葉の間や花壇の壁との間などもくまなく見て、摘む。仕事の合間に庭へ出ては、太陽の光を浴び、外気を吸い、葉に触れ、ほのかな香りにひたり、枯れ花を摘む。あの楽しい気持ちは「楽しい」としか表現のしようがないのだけれど、ビオラの株とのギブアンドテイクなんだろうと思う。

 第一次世界大戦では、砲撃戦と塹壕がヨーロッパの景観を大きく変えたという。かつて翻訳した『宝石──欲望と錯覚の世界史』(築地書館)でも、塹壕戦の様子が取り上げられており、懐中時計ではできなかったタイミングを計っての一斉攻撃のために、女性のための宝飾品であった腕時計が男性用の腕時計として進化していったことを知った。それは連合国対同盟国という政治的図式とは違った、人間の姿が見える歴史だった。その同じ塹壕で、兵士たちが掘り上げられた土に種を蒔いたり、草花を掘ってきて植えたりしたという(第9章)。300万人の兵士のうち100万人が戦死か大怪我をしたというソンムの激戦。その有様が、戦場の現場救護所に庭をつくった司祭ジョン・スタンホープ・ウォーカーの目で語られる。アーガイル・アンド・サザーランドハイランダーズ連隊の若い将校、アレクサンダー・ダグラス・ギレスピーはハエ取り紙を送ってくれるように故郷の両親へ頼むが、その手紙でマドンナリリーが満開の塹壕に突如落ちてくる爆弾の話をまるでついでのように書いている。生と死が隣り合っている極限状況の戦場でガーデニングをするということに、庭をつくって花を植え、世話をする人々の姿に、あまりにもリアルな人間の生への本能のほとばしりを見た思いだ。剥き出しになった土が目に浮かび、胸を打たれた。そこに花を植え、美しい植物から生きる力を受け取る。生命の循環は私たちを助けてくれると著者は言う。冬の最も厳しい時に、春が再来するという信念にしがみついてよいのだと(第7章)。深い感動の中で翻訳を進めた。

 2021年8月下旬の今、新型コロナウイルス感染者で、入院ができず自宅療養をしなければならない患者数が、日本全国で12万人に近づいているという。ついこの間まで繰り返されていた「安心安全」というキーワードは鳴り止んだ。たとえ自分や家族が感染していなくても、このような現実に、気分は鬱々とするし、絶えず危険にさらされている状態が精神によいわけがない。ワクチンを2回打って、どこにも出かけないでいる以上に、もう手持ちのカードもない現状で、ふと、庭のことを思う。……なんて、ご都合主義もいいところだろうか。まあいい。妹が来年のビオラの種を決めようと言ってきたので乗ることにした。それと来年のチューリップの球根も買おうと思う。

 敵に攻めこまれて、撃たれてばかりではつらいから、こちらからも打って出よう! 最後の最後で力になってくれるものは──ロシア民話『おおきなかぶ』の最後に登場する小さなネズミのような働きをするものは──土の中で春を待っているのではないだろうか。(後略)

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