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雨もキノコも鼻クソも大気微生物の世界―おわりに

バイオエアロゾルには、人の肌にふれたり人が吸引したりなどして、接触を避けて生活することが困難な微生物が含まれています。にもかかわらず、本格的な研究は最近になって盛んになり、膨大未知な微生物が大気中を浮遊していることがわかってきました。黄砂で長距離を運ばれる微生物は、感染症の伝播やアレルギー誘発によってヒトや動植物に健康被害を及ぼす一方、ヒトの健康に有用な納豆菌なども含まれ、太古の昔、食文化形成に役立っていたかもしれません。雲をつくる微生物は、降雨・降雪を調節しているだけでなく、太陽エネルギーの反射や蓄積にもかかわり、気候変化にかかわっている可能性が出てきました。バイオエアロゾルの影響は、悪くも良くもあるのです。まるで、人に良い面と悪い面があるのと同じで、バイオエアロゾルとつき合うにも、ある一面だけを見ては面白くありません。

大気微生物には、膨大未知な種類が含まれているのですが、大気で大部分(80パーセント)を占めるのはバチルスやクラドスポリウムなどの特定の種です。このように大気中ではメジャーな種(優占種)でも、環境中に落ちると増殖できず、海洋などではほかのマイナーな種が増える場合もあり、必ずしも空気中のメジャーな種だけを見ればよいわけではありません。反対に、健康被害や生態変化などの原因になる微生物が大気で運ばれているかもしれないと、バイオエアロゾルに含まれる微生物のデータベースから原因種を探し、マイナーな種であっても重点的に調べます。ですので、大気中ではマイナーな種が、研究者の心の中ではメジャーになることもあり、膨大未知な種のすべてを均等に扱うのが大切なのです。マイナーがメジャーになって脚光を浴びる人の社会に似ていますね。

この本は、私の研究室に所属して間もない学生が「大気中を浮遊する微生物」であるバイオエアロゾルを理解する手助けになればと思い、また広く一般の科学に興味のある方にも読んでいただきたいと考え執筆しました。ですので、専門的な部分を平易に説明したつもりです。微生物の生態を俯瞰し、良い悪いや、メジャー(優占)&マイナー(非優占)など人の視点で解釈しやすいように努めました。ただし、自然科学に関係のない突飛なエピソードや体験談から始まっている部分などもあり、変則的な構成になっています。理系の学問に壁を感じる人が、オヤっと関心を抱き、そのまま本題を読み進めてもらうのがねらいです。

じつは、本書執筆の構想を練っている際に、下書きのメモや図などを見せ、研究室の学生にどのように書くと面白いかと尋ねてみました。大半はあまり本を読まないからわからないという返事が無碍(むげ)に返ってくるばかりでした。そればかりか、中にはメモや図を見て、「この内容で読む人いるんですかね?」などと執筆の出鼻をくじくような意見もありました。この辛辣な意見を述べた学生は、卒業論文を書くにあたり、実験データの図が一枚しかないのに論文を仕上げたいと通常ではあり得ないことを私に無心してきた強者です。理系では、卒論でも10枚以上は図があるのが普通で、あまり理系の学問に熱心な学生とは言えません。しかし、これが私の心に火をつけました。このような学生でも興味をもってくれる本を書いてみようと思いました。

当初、バイオエアロゾルに関する専門的知見を教科書風にまとめるつもりだったのですが、多くの人に楽しく読んでもらえるように3点工夫しました。
①私が携わってきた研究の経験談を時系列に並べ、一緒に観測や調査に臨んでいる気持ちになるようにエッセイ風に記しました。専門的な知見を体系づけるのではなく経験談に則して述べました。
②ところどころのセクションで、研究に関連しなさそうなエピソードや映画、小説などで始めることで、研究活動そのものになじみのない方でも話に入りこんでいただけるのではないかと考えました。
③本文を読まなくても、図の写真や絵を見れば、バイオエアロゾル研究の雰囲気を味わってもらえるようにしました。ほとんどの図は本書用にオリジナルで作製したものです。

概ね出来上がった原稿を研究室の学生に読んでもらい、さまざまな意見を聞き、本文にフィードバックすることができました。中にはとても興味をもってくれ、筑波と秋芳洞の観測に是非参加したいと1名ずつ手をあげてくれました。「図一枚だけの卒論生」も、本文の言い回しなどが面白かったのか、本書に出てくる表現を自身のSNSで模倣してくれており、少しは読んでくれたようで嬉しくなりました。執筆にあたり、忌憚ない感想を述べてくれた学生たちには感謝しています。

もちろん、本書のコンテンツが多岐にわたり、研究の経験談が昇華され、独自性の強い納豆のような発酵臭を漂わせているのは、登場いただいた多くの研究者のおかげです。岩坂泰信先生や小林史尚先生から声がかからなければ、私がバイオエアロゾルの研究に携わることはなかったでしょう。微生物学を専門とする私が、大気科学や海洋学などにかかわる諸先生と交流することで、お互いゴールがわからないまま、偏西風に吹かれるかのようにバイオエアロゾル研究を進展させてきました。疫学や毒性学の先生に参加いただいたことで、漠然としていた健康影響が明確になり、バイオエアロゾル研究は趣味のレベルから社会的要請の高い研究へと発展しつつあります。それぞれの先生が関連する箇所では、内容についてお伺いしましたところ、温かくアドバイスや修正をいただき、専門外の私でもなんとか形にすることができました。私が関係する研究者は多岐にわたり、お名前をあげることができなかった方も多くいらっしゃいますが、これまでの交流に想いを馳せながら関連の箇所を執筆した次第です。今回書籍にまとめた数々の貴重な研究内容を育むことができたのは、関係者皆さまのおかげです。改めて謝意を述べさせていただきます。

大気微生物に限らず、フィールドに出て地道にデータをとるような、明日、明後日すぐに役に立たないような研究がじつは科学にとってとても大切なのですが、現在はそうした研究が行いにくくなっています。私が大気微生物の研究を続けるうえでもさまざまな苦難に見舞われたのですが、本書ではふれませんでした。現在、近畿大学で思う存分研究できていることを大変ありがたく思っています。

(中略)

本書を読まれた方が、部分的にでも内容に興味を抱き、バイオエアロゾル研究はじめ、大気研究、野外観測、室内実験などサイエンスに少しでも心を傾けてくださったなら研究者冥利につきます。
本書を手に取ってくださり、ありがとうございました。

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