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年輪で読む世界史―序章

1939年、オックスフォードにあるアシュモレアン博物館はアントニオ・ストラディヴァリの伝説的なバイオリン、メシアを入手する。それは実在する最も高価な楽器のひとつで、推定価格は今日なら2000万ドルを上回る。メシアは自動車業界の大物、ヘンリー・フォードからのバイオリン購入のための金額未記入白地小切手の受け取りを拒否したことがある、ロンドンの名高い楽器製作会社であり、収集家でもあったW・E・ヒル&サンズ社から博物館に寄贈された。ヒル&サンズ社は、桁外れの資産を持った個人愛好家がこっそりメシアを隠し持つのではなく、一般市民がその音色を楽しめるように、そして未来の楽器製作者の模範になるように広く公開されるべきだと考えていた。しかし、60年後、この桁外れな額の寄贈品をめぐる論争が突然巻き起こった。1999年、メシアの真贋に対してニューヨークのメトロポリタン美術館の楽器副管理者スチュアート・ポーレンズによって異議が唱えられたのだ。それぞれの主張を補強すべく、ポーレンズ氏とヒル家は年輪年代学者にメシアの製作年代の測定を委託した。

ストラディヴァリは彼の最高の作品であるメシアを1716年に製作し、バイオリンは彼が亡くなった1737年まで彼の工房に残されていた。1820年代、メシアは定期的にパリを訪れていたイタリアの楽器収集家で、楽器商でもあったルイジ・タリシオに売却された。パリ滞在中にタリシオはパリの楽器商にストラディヴァリの傑作を自慢したかったのだが、それを携えて公衆の前に現れることはなかった。このことが同時代のフランスの傑出したバイオリニスト*に「あなたのバイオリンは皆がいつも待っているのに決して現れない。まるでメシアのようだ」と言わしめたのだという言い伝えがある。1855年のタリシオの死後、メシアはこうしたパリの楽器商のひとりで、彼自身優れたバイオリン製作者であり、過去に製作された楽器の複製でもよく知られたジャン・バプティスト・ヴィヨームに売却された。ヴィヨームは30年以上にわたってメシアを所蔵しており、これがメシア論争の核心的な疑問になった。アシュモレアン博物館のメシアはストラディヴァリの傑作の真作なのか、ヴィヨームの巧みな手による19世紀の見事な複製品なのか?
*彼の名前はデルファン・アラールだ。

 この疑問に答えるべく、年輪年代学(デンドロクロノロジー)─ギリシャ語で「木」を意味する「デンドロ」と「時間」を意味する「クロノス」からつくられた用語─が登場する。メシアに使われている木の年輪の幅を測定することによって、バイオリンの製造年を決定できるのだ。つまり、メシア製造に使われた原木の生育時期を定めることができるわけだ。メシアの原木の最も新しい年輪(すなわち木の伐採時期)は楽器が製作された最初の年代を示すはずだ。仮にメシアの原木で測定された最も新しい年輪が1737年以後のものなら、メシアの原木はストラディヴァリの死後もなお成長していたことになり、メシアはおそらく彼の手によって創作されたのではないことになる。しかし、仮にストラディヴァリがメシアを製作したと思われる1716年よりも年輪が遡れば、それはバイオリンが本物だとする説を支持することになるだろう。

不幸なことにこの場合、年輪による年代決定は論争の火に油を注ぐだけの結果になった。ポーレンズに雇われた年輪年代学者はメシアの測定可能な最新の年輪を1738年とし、ストラディヴァリの死後1年間は木が成長し続けたことを示唆した。一方、ヒル家に雇われた年輪年代学者はバイオリンの最も新しい年輪は、記録されているメシアの製作年、1716年よりも以前の1680年にまで遡ると測定し、本物だとする説を支持した。しかし、両方の研究ともにバイオリンそのものではなく、メシアの写真にのみ基づくもので、また第三者による審査を受ける科学雑誌に掲載されることもなかったので、暫定的なものだった。

 この論争が起きたため、年輪年代学による楽器、とくに弦楽器の製作年の決定は広く知られるようになり、年代測定技術はそれまでよりもずっと向上した。例えば、年輪測定と画像解析方法の進歩は、研究者が現実のバイオリンを使って直接、作業することを可能にしている。数千もの楽器の年代を測定し、参考年輪年代の膨大なデータベースを構築することで、メシアの年輪幅の測定結果とを比較することを可能にしたドイツ、ハンブルク大学の年輪研究室もある。幅広い樹木の種類と地理的分布から得られた参考年輪年代は楽器の原木の年代を正確に決定するだけではなく、原木の生育地を確定する、木材産地推定法とよばれる技術にも有効だ。

 メシア論争からほぼ20年後の2016年、イギリスの年輪年代学者のピーター・ラトクリフはこの論争に決着をつけるためにイタリア製弦楽器の広範囲なデータベースを構築した。ラトクリフはメシアの年輪パターンが、1724年のストラディヴァリ作のバイオリンであるEx─ウィルヘルミ*の年輪パターンと合致することを明らかにした。すなわち2つのバイオリンは同じ原木から製作されたことになるのだ。ストラディヴァリの工房でのEx─ウィルヘルミの真贋には議論の余地はなく、ラトクリフの年輪年代学的な研究によってアシュモレアン博物館のメシアが本物であること(私たちが望む)が最終的に裏付けられた。
*Ex─ウィルヘルミの最終年輪はバイオリンの高音側で1689年、低音側で1701年と年代が測定され、両方ともメシアが製作された1716年より前であった。

 1998年春のこと、私はベルギー、ヘント大学環境工学の修士号をとろうと思っていた。修士論文の研究計画を選ぶときが来ていたが、ドイツでの交換プログラムで1学期間を過ごしてきたばかりで、私は立ち後れていた。クラスメートたちは旅行や海外での研究などの最も面白い機会に飛びついた。夏休み前に研究計画を決めたくて、私は植物生態学と木材解剖学を教えるハンス・ベックマン教授に話を持ちかけた。彼はタンザニアの樹木の年輪の研究を考えるよう奨めた。年輪年代学について聞いたのはこれが最初だが、たいしたためらいもなく私は、はいと答えたのだ。

 そのときまで私は、樹木の年輪に科学的な分野として保証されるに足りる十分な情報が含まれているとは思いもしなかった。しかし私は、発展途上地域で研究することへの強い願望と気候変動に関心を持っていて、もし年輪年代学を研究することで発展途上地域で気候変動を結びつける修士研究ができるのならば、樹木の年輪を研究してみようと思った。環境工学の研究者で年輪年代学を志す者はほとんどいなかった。年輪年代学をめざすほとんどの学生は、私の場合のように、学部生時代か、大学院生時代の偶然に始めたフィールド、あるいは室内実験を基本にした研究の機会を得ることから研究者生活が始まる。その始まりはいろいろだが、研究を続けていると、なんとか一人前のキャリアを積んでいくのだ。

 私の研究者生活で出くわした最初のハードルは、アフリカでの年輪の研究が工学修士号のためには大切な総仕上げの研究になると母を説得することだった。「バレリー、お金も稼げて素敵な仕事に就ける将来が拡がる学位取得からあなたは1年遅れているのよ。それなのに年輪? アフリカ? そんなことからあなた自身のキャリアをどうやってつくるつもり?」。思い返すと、経験もなければ準備もなく、アフリカをほっつき歩こうという私を母はおそらく一番心配していたのだと思うし、彼女の心配はたぶんもっともなことだった。しかし20年後、国際的な年輪研究者として成功を収め、私は折に触れてあの母の言葉を思い起こさずにはいられない。

 私を年輪研究に夢中にさせたのは修士研究の室内実験だった。タンザニアで採集した木を顕微鏡で観察するのは画期的なことだった。木はとても美しいもので、合致する年輪パターンを見つけ出すのはパズルを解くようなものだ。─やめられない。時間が経つことにも気づかず、私は年輪年代学に没頭した。博士号をめざして年輪年代学の研究をさらに4年間続ける道が開けようとしたとき、決心するのに長い時間はかからなかった。25歳の時点で、私の選択肢はオフィスに縛られた政府職員としての40年のキャリアを開始するか、またはアフリカを訪れて年輪年代学研究者になるかの2つだった。考えるまでもなかった。しかし、学位論文を書くことは、私が想像していた以上に長くて退屈な過程だとわかった。コーヒーを飲み、タバコを吸い、遠くに目をやりつつ、論文を書いた。私はブリュッセルの下町のエレベーターもない6階建てのアパートで研究の最後の年を過ごした。

 2004年12月に学位論文審査に合格し、ステートカレッジという町にあるペンシルベニア州立大学地理学教室の博士研究員のポジションを得てすぐにアメリカに渡った。ニューヨークを訪問するために1度アメリカに来たことがあったが、ステートカレッジが最も近くの市からでも3時間離れたアーミッシュ派が多く住んでいる農地の真ん中にある小さな町だということしか知らなかった。スーツケース2つとバックパックを持ってステートカレッジの小さな空港に着いたとき、指導教員のアラン・テイラーが迎えに来てくれていた。ステートカレッジがどんな町かがわかるように、繁華街を通っていくように彼に頼んだが、アランはそれに戸惑ってペンシルベニア州立大学のキャンパス沿いに車を走らせた。あとでわかったが、ステートカレッジに繁華街といえるようなものはなかった。キャンパスと、商店とバーがある通りが2、3あったが、それだけだった。国際都市ブリュッセルから直接ステートカレッジに移動してきて感じたのは、まさしくカルチャーショックだった。しかし、カリフォルニアの歴史的な山火事の数々を過去の気候に結びつけようとする、アランの植生ダイナミクス研究室での研究に引きつけられた。アランの研究室で過ごすうちに年輪研究欲が膨らんで、このときはカリフォルニアのシエラネバダ山地に私は見学旅行に出かけた。

 ヨーロッパで最も優れた年輪研究室であるスイス連邦森林・雪氷・景観研究所(WSL:森林、雪、景観のドイツ語頭文字)の植物科学研究グループの主任研究員、ヤン・エスパーに出会ったのはペンシルベニア州立大学に在籍中のことだった。ヤンが私に仕事を提供してくれたとき、ペンシルベニアの田舎でもう十分に時間を過ごしたと思い、ヨーロッパに、チューリッヒという都会に戻るときが来たと決心した。WSLで、私は年輪から過去の気候を復元する方法と、ネイチャーやサイエンスのような広い読者層を持つ最高の科学雑誌に論文を掲載する技術を学んだ。しかしスイスで4年間を過ごした後、私は再び大西洋を渡って、年輪年代学の発祥の地ともいうべきアリゾナ大学の年輪研究室(LTRR)で常勤職のポジションを得た。

 LTRRでは自身の研究グループを初めて持って、私はどの年輪が古気候を私たちに語ってくれるのかという問題をさらに追究した。たいへん能力ある博士研究員と大学院生を投入して、私たちは年輪を用いてカリフォルニアでの旱魃、カリブ海地域のハリケーンなどの極限的な古気候を検討した。またジェット気流などの大気上層部で発生する気候変動要因にも注目した。

 私は年輪年代学研究者だ。過去の気候と生態系と人類社会への影響を研究するために年輪を用いる。20年以上にわたって、過去と将来の気候変動を考え、論文を書き、講演することにほとんどの時間を使ってきた。これはとても困難な仕事といえる。毎年、私たちは気候について研究するし、化石燃料の燃焼が引き起こす大惨事についても研究する。人間が原因となった全世界的な気候変動の結末─人間社会を襲うハリケーン! スノーマゲドン(破滅的猛吹雪)! 生態系に対しては森林火災! ホッキョクグマの絶滅の危機についても研究する。しかし、二酸化炭素の排出の抑制、人為的気候変動による最悪の結果の緩和に対して毎年のように政府レベルで行われていることは、あまりにもわずかでしかない。気候変動と闘うという大胆な努力を196の国が分担することを約束した2015年のパリ協定以後でさえも事態の大きな改善はない。二酸化炭素の排出レベルは史上最高であり、ドナルド・J・トランプ政権下のアメリカでは、人為的な気候変化の危険な兆候は無視されていたばかりか、現実には虚偽報道、「フェイクニュース」とよばれていた。

 2017年の初め、私は疲れ果てて欲求不満だった。気候についての悪いニュースが連続することにもうんざりしていた。私の専門的知識、私の社会的性、そして私が支持する科学さえをも守る必要に絶え間なく迫られて苛立っていた。私は、まもなくやって来る長期有給休暇(サバティカル)で気候変動がもたらす破滅と憂鬱を考えながら論文を書くのではなく、科学的発見の興奮の物語、私たち人間の長くて複雑な歴史、そしてそれが自然環境といかに絡み合っているのか、またいかに樹木がつむぐ物語に根ざしているのかというテーマで書き記そうと決心したのだった。

 主に2つの理由から、年輪年代学はこのテーマにずば抜けて適している。1番目には、子どもがするように切り株の断面を見て、年輪の数を数えることで、多くの人びとが年輪年代学の概念のわかりやすさを直感できることだ。年輪年代学は研究対象を手で触れることができる自然科学の一分野だ。つまり直接樹木に手で触れることができるのだ。肉眼で年輪が見える。年輪年代学には、ぼんやりとしたナノ粒子もはるか遠くの銀河も含まれていない。2番目に、年輪年代学は生態学、気候学、環境史学のちょうど中心にあって、人類の歴史と環境変動の歴史の相互作用を明らかにできる独自の位置にある。そしてこれこそが、この科学がほぼ100年前にアメリカ南西部で最初に登場したとき以来主張してきた点なのだった。

 20世紀、年輪年代学という発展中の科学分野は時間、空間ともに拡がり続ける年輪データのデータベースをつくり出した。現在では、年輪研究の全世界データベースには、最も近くにある同種の木から270キロ以上も離れた場所で生育している、南極海のキャンベル島にある世界一孤独な木とよばれる木も含まれている。連続した最長の年輪記録であるドイツのブナ─ マツ年輪年代は1年たりとも欠損がなく過去1万2650年をカバーする。この拡張し続ける年輪研究データベースのおかげで、ますます複雑化する研究上の疑問に立ち向かうことができるようになってきた。全世界規模のデータベースによって、樹木が成長する地表だけではなく、地表の気候に連動する大気の上層での過去の変動を研究できるようになった。また、データベースは過去の平均的な気候のみならず、熱波、ハリケーン、森林火災などの異常気象の研究を可能にした。年輪年代学研究の1年ごと、年輪ごとの高精度化は、人類の歴史と気候変動の歴史の間の複雑な相互関係の研究における足がかり、拠り所をつくり出す。過去の気候─ 人間社会の関係についての短絡的で決定論的な特性評価から、社会の復元力と適応力の重要性を主張して、よりいっそう全体的な理解に向かって動き続けることを可能にした。

 本書では、年輪年代学の創設当時の状況から、森林、人類、気候の複雑な相互関係を研究する基本的手法のひとつになるまで、どのように発展してきたかを述べることを目的にしている。その道のりは直線的なものからはほど遠く、驚きに満ちたものだ。本書のストーリーは、樹木が疎らなソノラ砂漠での不可解な出発から、考古資料・歴史的建造物の「年輪を数えること」でもたらされた新事実、前の千年紀の気候の壮大な物語へと展開する。私は年輪に記録されている自然災害(地震、火山噴火など)と二次災害、そして過去の気候変動がヨーロッパではローマ帝国、アジアではモンゴル帝国、アメリカ南西部の古代プエブロ人など世界の人間社会にどのような影響を及ぼしてきたのかに焦点を当てる。

 私は本書で多くの領域を対象にする。人間の1本の髪の毛よりも小さな樹木の細胞、そして航空機が飛行する高度で北半球全体を周回するジェット気流について述べよう。この2つを海賊、火星人、サムライ、チンギス・ハーンなどの話を通じて関連付ける。私を虜にした年輪の話も述べよう。そしてこれらすべての話を貫いているのは、年輪年代学研究者が過去を研究し、将来の居住可能な惑星を保証することに貢献できるような樹木の利用と、森林破壊の歴史の物語だ。現在の気候変動に対する疑念と無関心にもかかわらず、そのような発見の話を語る余地はあると思う。願わくは読者には本書から、何か新しいことを学ぶときの興奮を感じてほしい。それこそ、私たち科学者が頑張ることができる原動力なのだから。

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