小説『モモタマナと泣き男』 第4話
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7.
田上初枝さんの「弔いの式」は予定どおり、正午にはじまった。
広間の前方には、白い布のかかった祭壇がおかれ、その上に田上さんの遺影と白い献花が飾られていた。数本のユリと、ひと束の小菊。決して華美ではなかったが、花の一本一本に存在感があった。
写真に映った田上さんは意志の強そうな目をしていたが、前歯が少し欠けているせいか、どこか憎めない顔をしていた。歳のわりに豊富な白い髪の毛を、きれいなお団子にしてまとめてある。
ロビーにはすでに参列者が到着していた。生前の田上さんを知る近所のひと、公民館のダンス教室でいっしょだったというひとなど、合計八人だった。彼、彼女らを広間へ案内すると、ほどなくして、役場の男性が住職をつれてやって来た。
男性が開式のあいさつをしたあと、お経がはじまる。参列者は目を閉じて、静かに手を合わせた。
お経が終わると、前方に用意されたスクリーンに、数枚の写真が映しだされた。初枝さんのこれまでを振りかえるようだ。赤ちゃんの時の白黒写真。両親、兄妹と並んだ幼少期の写真。三人兄妹の末っ子で、にかっと笑ったおかっぱ頭が初枝さんのようだった。旦那さんとの着物姿。新婚旅行のものだろうか、背景が海の写真もあった。
初枝さんは、まちがいなく、八十八年という時間を過ごしてきた。そう実感できる時間だった。八十八年という年月は、あっという間だっただろうか。それとも、長い道のりだっただろうか。
ふととなりを見ると、サワオが涙を流していた。ぶっきらぼうな印象とは真逆の、しっとりとした神々しい雰囲気をまとっている。朝の海で見たような真珠の粒が、頬をぽろぽろとながれ落ちていく。
悲しんでいる? いや、もっと自然な。雨が降ったり、風が吹いたり、そうした自然現象と同列のような。より大きなものに包まれていくイメージだった。
サワオの涙に影響されたのか、広間にいた参列者はひとり、またひとりと涙を流しはじめる。それぞれが、それぞれの田上さんとの思い出のなかに入っていく。そんな時間だった。
真那も田上さんを想いかえす。田上さんはなぜあの時、竹ぼうきを持って追いかけてきたのだろうか。怖い、怒られる。子どもの頃の真那はそんなことしか頭になかった。田上さんを「竹ぼうきばばあ」と呼んで、怖がって、悪者にして、そこで行き止まっていた。
敷地に入ったから怒った? それだけだっただろうか。せっかくやって来たカブトムシやクワガタが、小学生のえじきになるのを分かっていたからでは? あるいは、子どもたちが木を傷つけるのを知っていたから? 当時、ハサミやカッターでクヌギの木に傷をつけるとたくさん蜜が出るのだと学校で話題になっていたし、実際に傷もあった気がする。
田上さんの別の面を、今はただ想像することしかできない。
○
式のあと、参列者みなで会食をした。
「田上さんのニンジンは、毎年おいしくてねえ。ほら、お店で買ったのは固いでしょ? 田上さんのは品種がちがうの。柔らかくてみずみずしいのよ」
近所のヨネさんはひざが痛むのを我慢して、参列したのだという。
「初枝さん、先月までぴんっぴんしてたの。家に伺ったら、自家製のお茶を入れてくれてね。お話もいっぱいしてくれて。きっと初枝さんより私のほうが先だわよなんて話していたのに……ねえ」
ヨネさんはそう言って、しわしわの手でひざをさすった。
「ぼくは田上さんのパセリのファンだったんです。近所だったから、よく譲ってもらっていましてね」
隣に座っていた男性が、懐かしそうに口をひらく。六十代ほどだろうか、一人暮らしをしているのだと言っていた。
「田上さん、こんなに大量のパセリをひとりで食べたら、顔が緑色になっちゃうからと、いつも株ごと分けてくれていましてね。育てる量を減らしてもいいはずなのに、毎年変わらず、たくさんのパセリを植えてくれていました」
男性が、やわらかな表情で目をほそめた。
台所に立った母の背中を、真那が追う。手伝うよ、と、母が用意していた料理を皿に盛りつけ、お膳に置いていく。
おにぎり、大根菜の漬物、のびるの味噌汁に、ニンジンしりしり、高野豆腐のオランダ煮と、パセリやさつま芋の天ぷら。丁寧に作られたことが、ひと目で分かるものばかりだった。
広間に運ぶと、ヨネさんが、わあと可愛らしい声を上げた。ニンジンしりしりを見て、喜んでいるようだ。ニンジンのオレンジに、卵の黄色。元気の出そうな色合いもさることながら、しょうゆの香ばしい香りが食欲をそそる。
「パセリは天ぷらにしてみました」
「天ぷらかあ」今度は近所の男性が声を上げる。
「わあ、おいしそうねえ」ほかの参列者の声も、あちらこちらで聞こえる。
手を合わせ、田上さんの遺影の前でいただく。皆が思い思いに、料理を口に運んでいく。
まことはというと、子どもへの忖度のないお膳を前に、しばらく放心しているようだった。だが、そのうち箸をとり、ぱくっとニンジンを口に放りこんだ。予想よりもおいしかったのか、ぱあっと顔が明るくなる。
不思議な時間だった。故人はもうこの世にいないはずなのに、いっしょに会話をしながら食事をしているようだった。
8.
「サワオくんはね、二か月前の朝、浜辺に倒れていたのよ」
式の片づけが終わり、ようやくひと息ついたところだった。母が、三角巾とエプロンをはずしながら話しはじめた。
「それを発見したのが、散歩中のお父さんだったの。お父さんもまだ散歩には出かけられるくらい元気でね。倒れた男性を見つけて、駆けよったら、息をしていなかったんだって。ほらお父さん、若いころ、町の消防団員になったことがあったでしょ。そのとき教わった応急処置を思い出して、サワオくんに施したんだって。それでも反応がなくて、もうだめかと思ったところで、ふわっと意識が戻ったらしいの」
そのあと病院に連れていこうとしたが、サワオは「大丈夫」だと言いはって聞かなかった。でも帰るところがないと言うので、しばらく民宿で寝泊まりすることになったのだという。
「どこのだれかも分からない人を泊めるなんて、怖くなかったの?」
眉をひそめる真那に、母が笑って言った。
「民宿はそういうところだからね。それにサワオくん、全然怖い人に見えないし」
暢気にこたえる母を見て、真那は呆れ顔になる。
「いやいや、浜に流れ着いたなんて、ふつうじゃないよ。流刑とか、どこかのヤクザの一味とか。あ、殺人犯の可能性だってあるんじゃない?」
「流刑って、いつの時代よ」
冗談を言っているわけではないのに、母は愉快そうに笑った。
「そうそう、『泣き女』って聞いたことある?」
話を変えられたことに若干むっとしながらも、真那は首をふる。そういえば、さっきサワオは『泣き男』だと聞いたが、『泣き女』のことも真那はよく知らなかった。
「保井先生がね、民俗学の研究者なんだけど、最近サワオくんによく会い来られるのよ。それでいろんな話をしてくださるの。お母さん、その話を聞くのが楽しくってね」
そう言って、母は、壁ぎわの本棚から緑色のファイルを取りだし、真那に差しだした。そこには、論文や雑誌のコピーが何枚もファイリングされていた。その最初の一枚を手にとる。
「先生が言われるには、サワオくんはその『泣き女』によく似ているんだって。だからつまり『泣き男』なんじゃないかって」
たしかに、あの泣き方には魂をゆさぶるような、はかり知れないパワーがある。でも、だからといって、『泣き男』などという仕事は聞いたことがなかった。
「『泣き女』は昭和の初期くらいまで、日本にもいたらしいのよ。たとえば、輪島では五合泣きとか一升泣きとかいう言葉があって、『泣き女』は報酬によってどれくらい泣くか、泣き方を変えたりもしていたらしいのよ」
真那はポケットから携帯をとりだし、「泣き女」と検索した。情報がずらりとあがってくる。中国や台湾などのアジアだけでなく、ヨーロッパなどでも似たような習俗があったのだという。巫女やイタコのような、霊的な呪術行為との関連性も挙げられている。
ふと、ガーナの女性がお葬式で大泣きしている動画が、目に飛びこんでくる。大切な人の死という突然のショックに、なかなか泣くことのできない遺族たち。その前で、泣き女たちが慟哭しはじめる。そこから遺族は、堰を切ったようにつぎつぎと泣き声をあげはじめる。
あるサイトには、「泣き声や涙は、生前の故人がより多くの人に慕われていた証にもなるのだ」とも書かれていた。
「サワオって、どうして泣くんだろ? しかも男なのに」
素朴な疑問が、ふと真那の口をつく。
「おれが何?」
あわててふり向くと、虫かごを首にかけたサワオが立っていた。外でまことと遊んでいるとばかり思っていたのに。
「あ、えっと『泣き女』の話してて。それでサワオ、さんは『泣き男』のプロだということで。あ、プロでいいのかな?」
混乱したままの頭から、言葉をしぼりだす。
「サワオでいい」
「あ、はい。サワ、オ」
サワオは明らかに、いらついた顔をしていた。
「プロとか、どっちでもいいじゃん。そんなの」
なんとなく訊いてしまったが、またもや機嫌をそこねる質問をしたようだった。後悔しても、もう遅い。
「で、でも、プロかそうじゃないか、ぐらいは分かるでしょ?」
「逆に何で分けるわけ? お金もらえるか? 仕事にしてるかどうか? おれはやりたくてやっているだけだ。そもそも、身寄りのない故人からどうやってお金を取るんだよ」
この男には、ひとつ質問をするだけで、どっと疲れる。
「そっか、そうだよね。ありがとう」
真那は会話を終わらせようしたのに、予想外にもサワオはつづけた。
「でも、そのときの出来映えみたいなものはある。きちんと込められたかどうか」
「込められるって、何を?」
「心に決まってるだろ」
「心」なんて油断がならない。ぐらぐら揺れてどこにでも転がっていく。
真那が判然としない顔をしていると、
「懸命に生きたひとは、大切に送られるべきだ。ただ、それだけだ」
サワオがそう、はっきりとした口調で言った。
「でもサワオは、故人と会ったことないわけでしょ。この土地の人間でもないし、いわば赤の他人でしょ」
意地の悪い返しだと思ったが、なぜかサワオには、思ったことを口にしてしまう。
「この土地とか、この町とか、この国とか。そんなこと関係ないだろ。命をもらって、生きてきたもの同士。そりゃ、つらいとか苦しいとか、それぞれいろいろあるだろうけど、お互いにそれを認め合って、理解しようとする。それだけじゃだめかよ」
サワオはどうして、こんなことがさらっと言えるのだろうか。ただのきれいごとだろう。真那は、自分の頬が徐々に引きつっていくのがわかった。サワオに何が分かるのか——。
「他人のつらさとか、苦しみとか、理解できたなんて思いこむのはただの偽善じゃないの? そんなの結局、自己満足でしょ」
こんなことを言うつもりではなかった。口にしたあとで、後悔の念がどっと真那に押し寄せてきたが、サワオはかわらず冷静な顔をしていた。
「理解できた、とは言っていない。理解しようとする、と言った。それにあんたは、その理解しようとする努力をしたことがあるのか?」
「え」
真那の胸がちくりと痛む。
「相手の気持ちを聞いたり、想像したり、自分の気持ちを伝えたり。そういう努力をしてきたのかってことだよ」
紘平、まこと、父。それぞれの顔が浮かんでくる。職場の上司、先輩、後輩。腹を割って、正直な気持ちを打ち明けたことがあっただろうか。不満も要求も怒りも悔しさも、ひとりで抱えこんでいっぱいいっぱいになって、あげく、もう無理だと逃げだして。相手の話をきちんと聞いたことがあっただろうか。
「サワオー、見てー」
玄関からまことが駆けてくる。サワオの腰にぴたりと頬をよせると、「コオロギいたよ」と、手のひらを広げて見せた。まことはいつの間に、これほどサワオと仲よくなっていたのだろう。嫉妬心がないと言えばうそだった。まことと仲よくなりたいのは、わたしだ。
「あと、むかしはよく、男も泣いてたんだよ」
サワオはそれだけ言うと、「海行くか」とまことに声をかけ出ていった。真那はしばらく呆然としたまま、動くことができなかった。
サワオはいったい、何者なのだろうか。
窓の外に目をやると、モモタマナの葉がひらひらと、宙を舞って地面に落ちた。根元には一面に赤い葉が広がっていて、まるで炎のようだった。その向こうに海が見える。すべてを飲みこむほどの大きな海は、どこまでも青く豊かに広がっていた。
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