自己犠牲の対価に

普通に働くより、
寝る間も惜しんで働く方が
血反吐を吐くほど働く方が
自分を限界まで追い込んで働く方が
貴いと潜在的に思い混んでいた気がする。
普通に与えるより、
限界まで与えて与えて与え尽くして
最後の力と知恵を振り絞って
与える方が価値があると
思い込んでいた気がする。

自己犠牲を伴わなければ、
自分から生まれるクリエイティブに
真価が芽生えないような
そんなことを疑いもなく
信じきっていたような気がする。
信じきり過ぎて、
当たり前の領域、常識の領域にまで、
なっていた気がする。

それだけ自分を追い込んだ結果、
評価をうけたのだからこそ
喜びが伴うのだと思っていた。
これが何の努力もなく受けた評価なら
喜びもないはずだと。
だから、この自己犠牲は、
喜びのための必要条件であると
自己犠牲の対価に
私は生きる意味と価値を
受け取っているのだと
思っていた。

今思うとひどいこじらせ方だ。

自己犠牲により生み出した結果が
高く評価されなかった時、
憤りを感じた。
限界をこえて、ここまでしてるのに
なぜ当たり前のように受け取るのだと、
なぜそれ以上をもとめるのだと、
感謝しない相手を許せなく感じることもあった。

でもそのおかげで気づけた。

そんな与え方をして
ストレスをため、健康を害し、
心が疲弊し、たくさんの状況を非難した中で
疲れ果てて、何もかも嫌になり、
何もしねーよと腹を立て
全てをボイコットし
結果、少しの期間休息を取ったら
自己犠牲で酷使されていた身体が
ホッとしたらしく
何もしない事で身体から感謝された。

最初何も考えたくなくて
たくさんの睡眠を取った。
永遠に眠りつづけるのでは
と思うくらい寝た。
もちろん何の努力も必要のない
ただ寝るということを身体に与えただけだ。
なのに身体から絶大な感謝をされ
喜ばれた。
何日も眠り続けた後、
真っ新な自分に戻ったような目覚めをし
身体から
「今日はどこに連れて行ってくれるの?
 弾んでどこへでも行きたい気分」
と言われたような感じだった。
今まで酷使してきた事は根に持たず
少しの期間大事にしてやったことに
感謝と信頼を寄せてきた身体の素直さに
逆に尊いなと思った。

そして身体に対して今まで
悪いことしてたなと、謝罪したくなった。
怠く重たく動きたがらない身体を
ひきずりまわして付き合わせてたこと
ごめんねと思った。

身体が行きたがるところに
連れて行ってあげることにした。
湖畔を散歩したり、山道を散歩したり
何も生み出さないような、
以前の私なら無駄としか言いようのない
そんな時間を身体の声に合わせて過ごした。

身体とこんなに向き合って
話をしたのは初めてのことだ。

今までは虫歯や病気など
我慢の限界に達した身体の不調の
大声の訴えにだけコミュニケーションを
取っていた。
それ以外に何か意見が言えるやつだとは
思ってもいなかった。
ただ黙々と脳と心の指令に従い
動く乗り物みたいなやつで
意思や考えなどないと思っていた。

身体と少し仲良くなり、

一緒に散歩なんかしながら対話が生まれると

控えめな身体からささやかな提案をもらった。

言葉ではなく伝えてきた提案だったが、

言葉に落とし込むとこういう意味の内容を

提案してくれたのだと思う。

これからは、枯渇しないものを
与え続ける生き方はどうだろうか?
太陽が燦々と誰かと世界を照らし続けるような
本人には簡単で何もしてないに等しいくらい
ただあり続ける与え方、
そんな事を成熟させていく生き方に
シフトチェンジする時期ではないだろうか?
もう誰かの欲求や
自分の承認欲求を満たすにも
飽きていい頃ではないだろうか?
そういうのにちょうど
価値を置けなくなりつつ
ある自分に素直になっていいのでは?

私の中から毎日溢れてくるもの。
体調の良い日は特に、
体調が悪くてもなぜか、
息をするように
自然と溢れてくる
奪われても奪われても困らない
むしろ
受け取ってもらえるならありがたい。

それを、どんどん成熟させて
与える人生に一緒に変えていきませんか?

そんな提案をされた気がした。

掌を見たら意識しなくても
それが湧き出ている感じだった。
誰かに微笑みかけると
それが相手に伝わった感じだった。

そうか、私、これは枯渇しないんだ。
このエネルギーは、どんだけ与えても
奪われても、枯渇しないから、
むしろ溢れ出るスピードが上がるから
自己犠牲とは無縁で
永続的に安定供給できるのか。

枯渇しないからこそ
当たり前すぎるくらい普遍的にあるからこそ
全くフォーカスしなかったこれが
実は私の正体なのかもしれない。

このエネルギーの副産物として、
私の考えや知識、概念、肉体、心、感情、
表現、仕事、人間関係、生き方、価値観、etc、 
が刹那的に生まれ、私を名乗っていた。
もちろん副産物とはいえ、私であるが、
そもそもの私を主に置かず、
サブ的要素として
放置していた。

今の私は、主の私の副産物か。

分かっていたつもりの事だけど、
大きなパラダイムシフトが起きた。

主の私を大切に主軸にして生きる事、
そしてその中で刹那的に生まれては消える
副産物の自分を期限のある旬なものとして
思いきり楽しむこと、
そんなあり方の中に自己犠牲なんて
存在できない。

自己犠牲の対価に、
不健康が訪れた。
そのおかげで、
大事な感覚がよみがえった。

改めて、自然の摂理、
自然治癒力の
偉大さを知る。


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