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人は虚構しか共有出来ない(日記)

職場のトイレで失神した。
原因に大したことはなく、自律神経が云々ということらしいのだが、とにかく気がついたらトイレの床で大の字になっていた。

目が覚めた瞬間、凄まじい勢いで正常性バイアスが働いた。
およそ15秒ほどで駆け巡らせた思考は次の通りである。

あれ、なんでこの体勢になってるんだっけ。
舌の端っこが痛いな。口内炎か。
えらく眠い気がする。
そうか。眠くなってここで少し寝てたんだ。
思い出した。仮眠しようと思って横になったんだわ。
さすがに硬い床で寝るとお尻痛いな。席に戻ろ。
……。
……?
え、何この記憶?
本当に?
いくら眠くてもトイレの床に寝そべるか?
そりゃ大雑把な人間ですが、流石にそんなことしなくない?

ここで私は状況を見つめ直し、「トイレの床で寝るぞと決めた記憶はあるが、この記憶は全て偽かもしれない」という可能性に思いあたる。

そしてようやく、失神したのだと気がついた。舌や尻が痛いのは倒れた拍子に尻餅をついて舌を噛んだからであり、眠気に似ているこの感覚は体が何かしらの異常を起こしているせいだと理解した。

この日記を書いているのは、倒れた話をしたいからではない。このときの自分の思考を書き留めておきたいからだ。
「よしトイレで寝よう」と思って横になった偽の記憶は、今も鮮明に思い出せる。
存在しない世界線の私は、存在しないシャツのボタンを一つ外し、存在しないパンプスに傷がつかないよう注意を払いながら、ご丁寧にスマホのアラームまで設定し、確かに自発的に床に寝そべった。

自分の脳が即座にこの嘘を作り上げたことに、かなり恐怖を感じている。
トイレの床で目を覚ますという不思議な状況に直面したとき、私の脳は「何が起きたんだろう」と考えるのではなく、何よりも先に「私は望んでこの状況を作り出したんです」と自らを安心させることを選んだ。そのために架空の記憶を創作し、私は一時的とはいえそれをしっかり信じ込んだ。

失神なんて、自分に嘘をつくメリットがない出来事だ。
それでこうなってしまうなら、普段から一体どれだけ無意識に記憶を捻じ曲げ、自分を、自分を取り巻く環境を、正当化しているのだろう。


先日、『滅相も無い』というドラマを観終わった。このnoteのタイトルは最終話に登場する台詞である。


謎の穴に入っていくという決断をし、その動機について語るとき、人はどんなナラティブを用いるのか。おそらく無意識的に取捨選択された情報しか与えられない聞き手は、語られた内容から何を思い浮かべ、どう感じるのか。そんな問いを繰り返し検証するようなドラマで、とても面白かった。

もしも自分が穴に入る状況に陥ったなら、その実情はどうあれ、それらしい理由付けをして「これは自分が望んだ結末である」と納得して入っていくのだろう。人間誰しもそうなんだろうか。もしかすると、私は特にそういう思考の傾向が強いのかもしれない。検証しようがないのだが、最近はそればかり気になって、自分自身への不信感を埃のようにうっすら纏ったまま過ごしている。


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