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ふいうち(短編小説)

 これまでソファだと思っていたものが、どうやら生きているらしいということに気がついたのは、七日前のことでした。
 
 その夜、サリはいつものように、ソファで寝転びながら台所で夕飯を作るお父さんをぼんやりと眺めていました。すると突然、サリの頬の下でソファが大きなあくびをしたのです。冬眠から覚めた熊のように、低く、深く、厳かなあくびを一つして、そして再び沈黙しました。
サリは体を起こし、あっけにとられてソファを見つめました。無言で目を丸くしているサリに気がつき、スープの湯気の向こうからお父さんが笑いかけます。
「どうしたの、不意をつかれたような顔をして」
 
 サリは喉まで出かかった返事を飲み込みました。
 今座っているこのソファが生きているのであれば、考えられる可能性は二つ。地球上にある全てのソファが生きているか、もしくはサリの家だけに、ソファのふりをした生き物が忍び込んでいるか、です。
たくさんの動物番組を見てきましたが、ソファが特集されているのは見たことがありません。しかし、他のもののふりをすることが得意な動物については、サリも聞いたことがありました。となると、二つ目の選択肢に違いありません。
 きっと、サリがその存在に気がついていることが分かってしまったら、生き物はどこか別のところへ行ってしまうでしょう。
 今は何も知らないふりをしておこう。
 驚きが零れ落ちそうになる寸前のわずかな時間で考えを巡らせたサリは、喉をごくんと鳴らして首を振りました。
 
「『ふいをつかれた』顔ってどんな顔?」
 話題を変えたサリのもとへ、お父さんはスープの大皿を運んできます。
「驚いた顔ってことだよ。『不意をつく』っていうのは、相手の目を白黒させるような、油断しているところにびっくりさせるような…ほらっ」と渡されたスープ皿には、サリの嫌いな玉ねぎがふんだんに入っています。
 思わず受け取ってしまったサリを見て、お父さんは得意げに胸を張ります。
「サリが考えごとに夢中になっていたからね。今なら油断しているだろうと思ったんだ。受け取ったんだから、全部食べなきゃだめだよ」

 サリはげえと舌を出しながら「なるほど」と思いました。たしかに、考えごとに気をとられ、玉ねぎが仕込まれていたことにさっぱり気がつなかったのです。
 不意打ちの玉ねぎをスプーンで転がしながら、サリは決意を固めました。ソファの生き物がもう一度動いているのを見るためには、「不意をつく」しかありません。

 その日から、サリは「不意打ち探し」を始めました。
たとえば、教室の窓からセミが飛び込んできたときの先生の大声。
チワワのゴンちゃんが、砂場に黒い鼻を突っ込みクシャミが止まらなくなったときの驚いた様子。
 友達と夢中になって遊んでいるときに、突然大きく鳴り響くチャイム。
様々な「不意打ち」を集め、サリはいくつかの計画を立てました。
 
 そして、七日後。
 玄関にランドセルをおろしたサリは、そっとキッチンへ歩を進めました。ゆっくりと、指を曲げる音が聞こえそうなほど静かに動きながら、リビングの前を通り過ぎます。
 
 キッチンの下の戸棚から取り出したのは、ずっしりとした小麦粉の袋です。袋を抱き抱えるようにしながら差し足でリビングへ入り、ソファの周りに小麦粉を撒いていきました。床はあっという間にうっすらと白く覆われ、去年の冬の始まりの景色を思い出させました。
 
 サリはキッチンの陰に隠れ、息を潜めました。おとなりのゴンちゃんが砂でクシャミが止まらなくなったように、やがて小麦粉で生き物の鼻がむずがゆくなるに違いないと考えたのです。
 しかし、待てど暮らせど生き物は身じろぎしません。よっぽど丈夫な鼻なんだろうとサリは感嘆しました。それとも、寝ているときでさえ用心深く、クシャミ一つも出てしまわないように気をつけているのでしょうか。
そ うなったら、警戒することを忘れるほどに何かに夢中にさせるほかありません。サリは次の計画に移ることにしました。

 二階にある自分の部屋へ駆け上ったサリは、ベッドで寝そべるこぶたのスウに抱きついて、自分の方へ向かせました。「今日はね」スウに分かるよう、サリはゆっくりと話します。「この部屋の外まで行こうと思うの」
 スウが大きく目を見開くのがわかりました。小さな頃、遊園地のわっか投げでお父さんが見事に家族へ引き入れたこぶたのスウは、それ以来ずっとサリのベッドで暮らしていました。
 一体なんで、と言いたげに鼻を動かすスウを撫でながら、サリは声を低くしました。「実はさっき、おうちの屋根に紫色のチューリップが咲いているのを見つけたの。あれは毒チューリップといって、夕方になるととっても臭いガスをそこら中にまくんだって。ちょうどこの部屋の真上だったから、ここにいてはスウが危ないでしょう。一緒に下へ避難して、毒チューリップの解毒剤を探しにいきましょう」
 
 あわてふためくスウを抱いて、サリは階段を降りていきました。リビングのドアを開ける直前に、サリは急いで耳打ちします。「あとね、うちにはもう一匹大きな生き物がいるから。これから一緒に冒険に出るのだから、スウは友達になってあげて」
 スウが意外とおしゃべり好きな性格であることをサリはよく知っていました。あの生き物を仲間に引き入れることができるのは、きっとサリではなくスウなのです。一緒になって冒険に出かければ、そのうち夢中になった生き物がうっかり正体を表すはず、というのがサリの立てた計画でした。
 
 ソファの生き物にまたがって得意げなスウを横目に、サリは冒険の準備を進めました。スウとはもう何度も冒険をしてきましたが、生き物も一緒となると、いつも以上に気合が入ります。リュックにキッチンから持ってきたりんごやみかんを目一杯詰め込みました。

「毒チューリップの解毒剤はとても珍しいものだから」と、生き物にも聞こえるようスウへわざとらしく声をかけます。「あるとするなら、きっとすごく遠い古代遺跡の奥深くだと思う。そう、例えば、大昔の王様が埋まったお墓で、石の割れ目に生えているお花の蜜が解毒剤になるんじゃないかな」

 リビングの椅子に仁王立ちになり、辺りを見渡すサリの目には、いつものリビングではなく荒れ狂う海が映っていました。
 遠く遠くの古代遺跡を目指し、この海を渡っていかなければなりません。サメやウミヘビ、海賊もどこかに潜んでいるのでしょう。暗い波間に転げ落ちないよう、椅子の背もたれをぐっと握りしめたサリは、どこからか吹きつける海風と水しぶきに目を細めながら、ソファの生き物の様子を窺いました。
 生き物はスウを背に乗せ、右へ左へと荒波に弄ばれるようでした。まるで観念したようにその大きな体を海に任せた生き物は、じっと目を瞑っているのだと分かりました。
 まさか泳げないのでしょうか。
 サリは慌てて自分の椅子型のボートを漕ぎ、生き物の近くまで寄せました。黒々とした雲が垂れ込める空の下、波はどんどん高くなり、ボートは不安定に揺れています。スウはすっかり怯え、うすピンクの毛も風になぶられ鈍く光るようでした。
 そのとき、何かがサリの肩のあたりをかすめました。魚を捕まえるための網のようです。この嵐の中でどこかの船から飛ばされてきたのでしょう。サリは無我夢中で網をたぐり寄せ、自分のボートと生き物の足をくくりつけました。「これで大丈夫、はぐれないからね」

 生き物をはげましながらどうにか海を渡りきり、ようやく上陸した先は、雄々しいツタが足元を這うジャングルでした。
 そこでも数々の恐ろしい危険がサリたちを待ち受けていることが分かりました。サリは思わず唾を飲み込みます。足先をくすぐる底なし沼、ライオンのうなり声、高く伸びる暗い木々。サリはすっかりずぶ濡れになったスウを抱きしめ、生き物の背に手を添えました。
 生き物はじっと目を瞑って佇むばかりでしたが、サリの手のひらからはじんわりとした温かさが広がります。確かな体温と共に、前よりもはっきりと、生き物の息遣いが感じ取れるようでした。

 サリたちは胸いっぱいに息を吸い込みました。そして大きく一歩を踏み出そうとした​​その時――
背後から「わっ」と大きな声がしました。

 突然の大声に飛び上がるほど驚いたサリたちでしたが、声の主は帰ってきたばかりのお父さんでした。お父さんは、サリたちに負けないほどびっくりした顔でリビングを見渡します。
 サリたちの冒険の舞台となったリビングでは、床一面に小麦粉が散乱していました。レースのカーテンは引きちぎられ、なぜか椅子がソファへとくくりつけられています。キッチンにあったはずのりんごやみかんはリビング中に散乱し、その真ん中では汗と水でぐっしょりと濡れたサリが
スウを握りしめているのでした。

「これは」と、お父さんは目を丸くしました。「不意打ちだな」
「これは」と、サリは目を輝かせました。「スウとソファの生き物との大冒険なの」

 その言葉を聞いて、お父さんははっとした顔で口に指をあてました。慌ててサリの近くへ寄ると、耳元で囁きます。「ソファが生きているって、気づいていることがバレてしまうよ」

 サリはあっと言いそうになった口をおさえ、ソファの方をうかがいました。さっきまでは身震いすらも感じていたのに、気がつけば知らん顔で黙りこんでいるソファには、きっと今の言葉が聞こえてしまったのでしょう。計画は練り直しです。

 サリは唇を尖らせかけて、ふとお父さんの顔を見直しました。
「お父さん」と、ささやきます。「ソファの生き物のことを知っているの?」
 お父さんは玉ねぎをよそった時と同じ笑顔を見せました。
「僕もずっと前から、あの生き物の不意をつこうと頑張っているんだ。気づいていないと思っていたでしょう。驚いた?」

 そうして、お父さんを「不意打ちスペシャリスト」として迎えた「不意打ち作戦会議」は、その夜遅くまで続きました。


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