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#29 "書店のウラ"「本屋大賞はこれでいいのか」

 先日、本屋大賞が発表されました。受賞は、宮島未奈さんの『成瀬は天下を取りに行く』でした。

 自分は現在、某書店で働いています。この記事を読んでいただくに伴いそのうちバレるので書きますが、紀伊國屋書店です。自分が働いているのは、都内の大型書店に比べるとそこまで大きな規模だとは言えない店舗です。しかし、お客さんがまず目にする棚である入り口近くに『成瀬は天下を取りに行く』が山積みに売り出されており、賞を取ったので当たり前といえばそうなのですが、しかし、直木や芥川といった賞よりも大々的に売られているのを見ると、やはり本屋大賞というのは相当の影響力を持っているのだということを実感させられます。

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 さて先ほど、どうせ自分の勤務先がバレると書きましたが、それは『成瀬は天下を取りに行く』が”キノベス”という賞も受賞している件について書く必要があると思ったからですね。キノベスというのは、文字の如く『紀伊國屋のベスト』を省略した賞であり、つまり、紀伊國屋の書店員だけが関係する本屋大賞のようなものということになります。まずここで書いておきたいのは、その善悪は別としてキノベスが本屋大賞の”売り上げレース感”を大きく増幅させている一因だろうということです。

 過去の受賞歴を振り返ります。

上から順に「本屋大賞受賞作・キノベス受賞作」(著者略)

2024 『成瀬は天下を取りに行く』
   『成瀬は天下を取りに行く』
2023 『汝、星のごとく』
   『汝、星のごとく』
2022 『同志少女よ、敵を撃て』
   『同志少女よ、敵を撃て』

2021 『52ヘルツのクジラたち』
   『滅びの前のシャングリラ』
2020 『流浪の月』
   『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』
2019 『そして、バトンは渡された』
   『そして、バトンは渡された』

2018 『かがみの孤城』
   『R帝国』
2017 『蜜蜂と遠雷』  
   『翻訳できない世界の言葉』
2016 『羊と鋼の森』 
   『羊と鋼の森』

 さらに遡ると、2012年も『舟を編む』がキノベスと本屋大賞を同時受賞しています。書店によって個性や嗜好の違う店員が働いているとは考えづらいため、当然ですが、ノミネート作の系統は似る傾向にあります。

 これが、まあ、おもしろくないんですよね。

 たとえばレコード大賞のとき、ノミネート楽曲一覧を見ていて「まあこの演歌が大賞ということはないだろう」とか「さすがにバカ売れしたこの曲で決まりだろ」とか、そういうことを内心で思うわけじゃないですか。それに似た感覚です。今回も「さすがに成瀬だろ。でも違ってくれ」と内心で祈っていました。それは決して、自分のタイプではない本がどうたらという私心での祈りではありません。

 理由はシンプルで、結果が見え透いている賞レースというものはそこに参加する人の熱意を削いでしまう性質があり、それが結果的に出版界の衰退を招いているようにも思うからです。言わば、大賞を取る(取りやすいようなジャンルの)本が、様々な観点から各方面に分配されるべき出版利益のパイを独占するように仕向けてしまうような賞——それこそが、”本屋大賞”あるいは”キノベス”なのです。

 そしてさらに記しておきたいことがひとつ——。著作の実力という基準とは別の尺度により作家間の格差を拡大させる、そんな側面を持つ書店開催の賞がもたらす影響は、きっと今後もさらに加速していくだろう、ということです。原因はたった一つ、出版業界の不況です。

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 この国において、個の時代、という言葉が叫ばれるようになってからかなり久しい気がします。Youtuberなどの個人クリエイターが2010年ごろから登場し、自分の好きなことをして生きる、というライフスタイルが喧伝され始めたのもこのあたりでしょう。こうした時代背景の大きな役割は「ある人物背景をそのまま商品化できるようになった(=資本主義化した)」という点にあるのではないか、と自分は考えています。昔と今のコンテンツの大きな違いというのは(テレビとYoutubeのような二者を想像しています)、そこに映る人間の生活感に気軽にアクセスできるか否か、という点ですよね。たとえばYoutubeに参入してきた芸能人なんかも、モーニングルーティンだとかVlogだとか、かつてのテレビ企画なんかとはかけ離れた企画でないと再生数が厳しかったりするわけです。Youtubeなどといったチャンネルではもちろんのこと、TikTokやAbemaなど、様々なメディアにおいて様々なスターが登場し、人々の嗜好や流行が細分化されかつスターとの距離が身近なものになった——そんな日本において経済がなんとなく停滞しているのは偶然ではないように思います。つまるところ、かつての昭和のスターのような替えの利かない存在だけで経済を回していく(広告で押していく)ことが難しくなり、各々の人々に合ったニーズにフォーカスした話題性で消費を促していくビジネスでないとやっていけないということなのでしょう。

 めちゃくちゃ話が逸れて申し訳ないのですが、こうした向きは出版業界にも大きく当てはまるように思うのです。

 つまり、ある業界の利益成長が全体的に滞ってきたとき、その業界は中身などとは別の尺度、即ち話題性や取っ組みやすさで消費を促していくことを考え始める必要があり、中身は優れているが流行に対し相性の悪いようなもの、一見して人の目を惹きつけにくいものに構っている余裕というものが、どんどんとなくなっていくのでしょう。

 書店は出版利益のために票を操作しているなんていえば陰謀論者になりますし、実際にそんなことはないと思います。

 しかし『いま売れている本をさらに売る』という——まさに、キノベスから本屋大賞への鮮やかな接続芸によって実現されるような——そんな戦略は、出版業界が停滞している今こそ最大の効果を発揮してしまうというのもまた事実なのでしょう。

 そして、文学というジャンルがあまりに切ないのはこのせいだ、とも思います。

 もともと文学というものが「どこか一人でひっそりと隠れる呼吸を発掘する」という目的により発達した分野であるにもかかわらず、文学が絶滅しないために(=人々に認知されるために)取るべき手段が、文学それ自体の意図と真っ向から対立してしまうということなのです。

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 いま、本に関わる人たちは、大きな二択を突きつけられているように感じます。

 自分たちの信念を守ってゆるやかに自滅することを選ぶか。それとも、プライドを捨て去り、原形を留めないものになることを覚悟してその繁栄を選択するか。

 本屋大賞に疑問を持つのはたしかですが、そうしたことを考えると苦い気持ちになります。

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