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「戦争と教育」を考える

■ぼくが戦争を考えるきっかけ


我が家では、毎年お盆になると、祖母から戦争中~戦後の混乱期の苦労話を聞くのがならわしである。

祖母が語る「あの戦争・あの時代」の話は三語に要約できる。
すなわち「暑かった」「ひじかった(きつかった)」「ひもじかった」
である。

ひととおり話し終わると、学徒動員の様子をうたった「あゝ紅の血は燃ゆる」を2キーくらい高く歌い大団円を迎えるのが、我が家の正しいお盆の姿だ。

祖母は大分県宇佐市という、東京の地下鉄にオシャレポスターを貼っている焼酎「iichiko」の三和酒類のおひざ元で生まれ育った(写真は隣町の風景)

この麦畑の中に「宇佐海軍航空隊」(Wikipedia URL)ができ、
麦畑の中にコンクリート製の飛行機を格納する基地ができ、
そこから特攻隊が出撃していった。(宇佐市のWEBサイト

 
  祖母は田舎の典型的な地主階級の「野良仕事をするお嬢さん」として育ち、映画サマーウォーズに出てきそうな家に住んでいた。それゆえか上のお姉さんが嫁いだ陸大出の参謀とか士官学校を出た親戚とかプロの軍人は結構身内にいた。
 
 そういうプロ軍人たちが、なんかの拍子に祖母の実家へ挨拶にくると、当然の戦況の話になる。当時14歳だった祖母もしっかり盗み聞きしてるわけだが、当時の女子中学生は軍事用語に堪能で「絶対国防圏」とか「戦艦〇〇」とか学校で教わって覚え込んでいるのだから大体の話の流れは分かる。

さらに、大人の言葉の端々にみなぎる雰囲気で「ああ、日本は負けるかもしらん」と思っていたそうな。

 こういう大人の話だけではない。ニュースでは「どこそこの島で戦いに負けた」とか「〇〇の島で負けると敵の爆撃機が日本上空へくる」と(わりと正直に)伝えていた。

 それは決して祖母にとって遠い話ではなく、肌感覚とも一致していた。

 学校の授業で「これからは戦闘機が戦争の勝敗を決める!」と教え込まれ、勤労奉仕で町工場へでむき一所懸命・滅私報国12時間二交代で戦闘機用の機関銃を作るのだけども、14歳の(食べ物が足りず)栄養失調気味の女子中学生たちが作っているわけだから、当然品質はガタガタ。
 不良品を出すと「おしゃかを出した」と、監督にビンタされる毎日。

これではにっくきグラマン(敵の戦闘機)を叩き落とすことなど土台無理ということ、作っている当人たちが泣きたくなるほどよく知っていたという。

 「女子中学生が一日10時間労働で機関銃を作っている」ってだけでも、シュールなのに、さらに空爆が始まる。

 有名なB29爆撃機もやってくるのだが、怖いのはグラマン(Wikipedia)というセスナ機くらいの戦闘機だったそうで、これは超高速で地面すれすれに飛びながら機関銃を乱射してくる。

 祖母は友達と一緒に田んぼに飛び込み、難を逃れたわけだが、不幸にも文字通り四散してしまった知り合いもいる。祖母をかすめた音速の弾丸が、ほんの少しだけ角度をかえていたら、祖母はもちろん四散し、同時に父も、おじ、おば、いとこたち(と、甥っ子姪っ子たち)まとめていなくなっていると思うと、ゾッとするのである。

とはいえ、目の前で元気におしゃべりしている祖母が、

14歳のとき、グラマンから機関銃を乱射され田んぼに飛び込んで逃げた」「家の近くから出発する特攻隊の見送りをしていた

というストーリーは「お盆の家族団らん」とあまりに隔絶しすぎていて、
実感が湧きづらい。

 祖母の話に戻す。上記のような情報や圧倒的な体験を得ても、8月15日まで、祖母にいわせると「日本の勝利を心のどこかで信じていた。」そうなのである。

「継戦以外にも方法はあるんでは?」とか
「実は負けているのでは?」みたいなことは、

大っぴらには(祖母の記憶では)たれも口にしてなかったそう。

 何が当時の人々に「戦争のゆくすえ」を話し合うことを妨げたのか。

祖母の答えはこうだ。
「皆、自分が今日、何を食べるかそれを考えるのに必死だった」
「当時はそんなこと考える雰囲気ではなかった」
と。 

言い換えれば「生活の忙しさ」と「場の空気」ということになるだろうか。
「生活の忙しさ」と「場の空気」が人々から社会の大枠について思考したり、議論したりすることを妨げるというのは、今も変わらないかもしれない。

もう一つ。
「まさか政府・大本営があそこまで戦況・戦果に関してデタラメを言うとは思わなかった」という祖母の言葉にも注目したい。

 祖母の世代は徹底的に政府の発表に騙され、戦後も預金は封鎖され、現金を引き出せないまま、ハイパーインフレのコンボをかまされ、貯金の価値が100分の1、200分の1になった結果、地主階級で、そこそこ小金持ちだったはずの祖母(そして嫁ぎ先の祖父)たちは、父の言葉を借りると「クリスマスのプレゼントにリンゴが半分。自分と兄貴の枕元においてあった」くらいの生活水準まで落ち込んでいく。

 書いてるだけで、めまいがしそうな時代だが、祖母をはじめ、みんながそんな時代を頑張って生き抜いてくれたおかげで、今日の僕がいる。

 祖母がグラマンの機銃掃射から逃げてくれたから、僕が存在していると考えると、あの時代と今はしっかり繋がっていると分かる。それに、あの時代から学べることは、今の社会の課題を考える大きなヒントになりうると思う。

■子どもたちが戦争を考えるきっかけ

 毎年毎年、お盆になると、各チャンネルで戦争関連の特番が組まれる。
少なくとも僕の周りの大人たちは、SNSで真摯なコメントを投げている。
しかし、僕は戦争については一部の大人たちがワーワー言ってるだけに思えてしまう。

 子どもの中でも、例えば「失敗の本質」を読んで、「日本軍の失敗は、違う意見を持つ人同士が議論をできない組織風土からうまれたのである。」という子ども、一握りだが存在する(塾にいる)

 しかし、一般的にいって子どもたちが「あの戦争・あの時代」から何かを学ぶための機会は圧倒的にすくなく、アンバランスなものだと思う。

(以下は、データに基づかない僕の推測および放言であること、ご了承願いたい)

日常のほとんどすべてを子どもたちと一緒に時間を過ごす人間として、肌感覚で感じることは、確かに一部の子どもたちは「あの戦争・あの時代」を知っている。

それは以下の場合に大きく分類できると思う。

 ①その子どもが歴史(戦史)が好きな場合
 ②その子どもが兵器を好きで調べている場合
 ③その子どもが受験で「あの戦争・あの時代」の情報を覚えた場合


 先に言っておくが僕は①、②を否定するつもりは全くない。
戦争に限らず、何かを好きになる・考えを深めるきっかけは人それぞれでいいと思うからだ。

 私だって、戦争を考えるきっかけになったのは、上記の祖母の話だけではなく、父が子守歌替わりにうたっていた「空の神兵」や「加藤隼戦闘隊」のような気がするし、零戦や大和といった兵器に存在する工業品としての美しさや力強さという魅力は否定できない。

 ただ、①、②をフックとして興味関心が昂じた子どもになると、
「この戦闘機のエンジンは、どこどこのメーカー産で、ドイツ由来の技術が使われているが、欠点は燃費の悪さ」というような、自動車マニアのおじさんみたいな話題に終始してしまう傾向がある。
ゆえに「あの戦争・あの時代」の社会の問題を捉えたり、考えたりするためには、やはり大人側の工夫・きっかけが必要だと思う。

 ③の受験について、現時点での受験の仕組みで「あの戦争・あの時代」を学ぶことは、子どもたちにとって「あの戦争・あの時代」を、テストにでる年号や、地図、用語という、無味乾燥した情報群にしてしまう怖れがある。
子どもたちにとって、それは点数のために覚えるべき記号であって、考察する対象ではない。

 学校の教科書の課題もある。中学、高校の教科書が「あの戦争・あの時代」の全体像を薄く広く書いているがゆえに情報量が多すぎて かつ子どもたちに興味関心をかきたてるフックともなりえていないという課題がある。

 仮に子どもたちに「あの戦争・あの時代」について考察してもらいたいなら、子どもたちが自発的に調べて、考えることが必要であり、そのためには子どもたちに興味をもってもらう必要がある。
が、学校の教科書にそこまで子どもたちをフックする力(魅力)はない。

※今後、大学入試改革がすすむにつれ、大学入試のみならず、高校や中学受験で、さらに論述形式の問題が増えると予想される。今後は受験をきっかけに「あの戦争・あの時代」の課題について調べて、自分の言葉で考察していく子どもたちも増えていくのかもしれない。(それはそれで課題はあると思うが)

 ついでに僕らの子ども時代にあった、「平和教室」も惜しい感じがする。
なぜなら、説教臭いし、怖いから。もちろんそういうものにフックする子どもも一定数いると思うが、僕はつねづね「こんな大変なことがあったんだぞ!」とか「知らないと大変なことになるぞ」といった「不安と恐怖」で子どもに興味をもってもらうことには限界があると考えている。

 まとめると、僕は子どもたちが「あの戦争・あの時代」へ興味を持ち、自分で学び始めるきっかけは十分とはいいがたいと考えている。

「兵器」「ミリタリズム」だけではなく、
「受験」に必要な乾燥した知識習得だけではなく、
「恐怖と不安」でもなく、

子どもたちが「あの戦争とあの時代」を考えるきっかけを提供できないか。
僕は教育で大事なのは「子どもたちが物事に興味を持ち、自分で学び始める動機付け」だと考えている。ここさえクリアすれば、子どもたちは、ものすごい勢いで情報を収集し、自分で考えていく。

■「あの戦争」を、子どもの日常にひもづける

 僕は子どもたちが「あの戦争・あの時代」に興味を持ち、自ら学び始める動機付けとして有効なのは「あの戦争・あの時代」から得られる学びを子どもたちの日常・生活へひもづけながら、伝えることだと思っている。

人間が集団で生きる以上、クラスでも、部活でも、サークルでも、
争いは起こるし、差別はあるし、空気に支配されるし、集団で理不尽な決断・行動をしてしまう。 

子どもの日常におこる様々なことと、「あの戦争・あの時代」はつながっていること、同じメカニズムや構造で、様々な争いや理不尽はおこっていることを伝えていければなと思う。

■ぼくら大人が準備すること


「あの戦争・あの時代」を子どもたちに伝えるにあたっては、ぼくら大人が準備することが大切だ。最初に取り組みたいのが、そもそも何を子どもへ伝えたいのかを大人があらためて考えることだ。

例えば、
 ・命の大切さ
 ・意見が違う人を排除しない大切さ
 ・人と人とが憎しみ合うことのおろかさ
 ・追い込まれたとき、人がしてしまう恐ろしい行動
 ・偉い人が言うことを鵜呑みにせず、疑いながらチェック出来ること
 ・「忙しさ」「場の空気」で、大事なことを考えなくなってしまうこと

他にもたくさんあるはずだが、大事なのは「あの戦争・あの時代」の教科書的な網羅的かつ細かい知識の集合ではなく、抽象化して、エッセンスを子どもへ伝えられるようになることだ。

 最後に一例をあげると、例えば、名著「失敗の本質」はチーム作りや、チームの意思決定のときにあるあるな失敗談のまとめであり、そのエッセンスは、子どもたちの日常生活(部活やサークル)にも応用だと思う。

が、いかんせん、長い。そして全体に暗い。いきなりこの本を読め!というのは、子どもには酷だ。

そこで大人が内容を抽象化し、エッセンスを抜き出して、子どもたちの日常(家やクラスなど)でおこる色々な問題とひもづけ、子どもへプレゼンし、子どもに「へぇ、面白そうだな」と思ってもらうこと。
(もっと言えば、「ヤバっ!」と言ってもらうこと。)
この試みを続けていくことが大切だと思う。

なお、この文章は、学習支援塾ビーンズとは関係なく、ぼく個人の意見であることを断っておきたい。(詳しくはこちら







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