聖書

気分中心の生き方から、考え方中心の生き方へのシフト

思えば、長い間自分の好き勝手に生きてきたもんだと、最近感じる。その結果、得た物も多かったが、失った物も多かったように思う。

で、今までは無宗教であり、自分を中心とした生き方・考え方でいたが、最近、どうもそれではつじつまが合わないような気がしてきた。自分というのは、気分でコロコロ変わる。そんなものを考え方の中心に置いていては、いつも考え方の軸がぶれるのは当然だ。一方で、ぶれない自分を欲している。

自分を信じることは必要だ。だが、信じるべき対象が自分「だけ」ではだめなんだ。何かが足りないんだ。自分「だけ」を信じた結果がこれなんだから。

自分は弱い。

これを認めざるを得ない。だから自分(気分)を中心とした生き方では、弱い生き方、弱い信念しか残らない。現にそうなっている。しかし、今後はそれではだめだと思ったし、嫌だと思った。

では、何を中心とした生き方・考え方が一番良いのだろうか?色々探してみた。

尊敬する人?尊敬する本?どうもしっくりこない。その人のことを深く知らないし、その本の意味は理解できるが、それを人生の中心におけるか?というとどうも違う。どうにもコアが見つからない。それではぶれない芯が作れない。

色々と考えた結果、

聖書の考え方を中心として生きてみようと決めた。

なんで仏教の教えじゃなくて聖書なんだよ?と思う人のほうが多い気がする。が、仏教の教えや流派の変遷と、聖書の教えとを比較した結果、今の自分が欲するもの、つまり、ぶれないコアの考え方を作れそうなのは、聖書の教えであると感じたから。

もちろん、聖書の教えについても流派はあるが、そのバリエーションは、自分が欲するコアの考え方の範囲内に十分収まるほどの違いだと思えたから。

もちろん、聖書の学習が進めば、また新たな知見に基づいて新たな意見に変わるだろうが、今現在の判断として、聖書の教えを自分のコアとして生きることに大きな安心感を感じている。だから、日々、純粋な気持ちで聖書の教えを学んで、人生に組み込んでいきたいと思っている。

聖書には正しいことしか書いていない。

いきなり宗教臭くなった。う~ん、そう思う。

でもね、自分のコアに据える物が「正しくないかもしれない」なんて、そんな物をコアにおけるはずがない。自分のコアを常に疑うなんて、それは既にコアではないと思うのだ。だから、聖書の教えを学ぶ以上は、聖書の教えの正しさを心から信じたい。

しかしながら、聖書は、正しいことの全てを網羅しているわけではない。これはおそらく、聖書に書いていないことについては「書かれていることに基づいて自らの解釈で正しいことを判断せよ」という試練なのではないか?と思ってみることにした。

宗教論について語るつもりはない

まだ学び始めたばかりなので、そんなことも出来るはずもない。ただ一つ言えることは、自分が生きる上での大きな指針=コア、を聖書の教えにしていこうという意思があるということ。今まで何となく自分の気分で判断してきたことを、聖書の教えに照らし合わせて判断し、よりよく生きるための考え方を聖書から学ぶ。それだけなのだ。

もちろん、いい年こいてそんなことも判断できないのか?という嘲笑もあるだろうが、そうなのだ、それが真実なのだ。私は弱い。だからそんなことも判断できなかったのだ。それを認めて、聖書の教えに従う。これが聖書に記されていたことの「自らを捨てて、十字架を背負って生きる」ことなのだろうと思っている。

周りにどうこうするつもりはない

とはいえ、変わるのは私自身であって、周りにどうこうするつもりはない。「生き方の軸を聖書の教えにして生きてみることにした。」という、ただそれだけを表明した日記なんです。この記事は。

なので、いないとは思いますが、宗教論をふっかけられても困ります(笑)そこはそっとしておいて欲しい。

聖書には良いことが沢山書いてあることは確か

良い考え方を伝えられる記事は、noteを通じて相互成長に役立つ気がする。だから、良い生き方につながる聖句などの紹介がたまにできたらいいな、と思っている。

そんなわけで、いつもとは毛色の違う記事を書きました。今夜も聖書を読んで寝ることにします。

今日一日幸せに生きることができました。
明日も皆様が幸せでありますように。

読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊