大聖堂

(聖) 神に誓ってはいけないの? (聖書の学び 4)

あなたは◯◯を誓いますか?よくあるフレーズ。だが、マタイの福音書には、

誓ってはならない

と書かれている。どういうことだ?

なんだか解釈が難しい気もするが、考えてみる。よく読むと、例文として、頭に誓ってもあなたは髪の毛の白黒すらどうにもできないでしょ?って書いてある。つまり、誓ったところでどうこうできるかどうかは神が決めているのであって、あなたが決めるわけではないよ、思い上がるな、ということだろうか。

続きがあって、あなたがやっていいことは、「然り、又は、否、」というなぞなぞが続く。よくわからない。結果を当然のこととして受け入れるか、結果を否定するために行動を変えるか、という二択ってことか?

聖書の基本的な教えとしては、因果関係よりも、全ては神が準備済み、というスタンスだった気がする。だから、「結果について自らが誓ってはいけない、それは神の所業である」ということだろうか。

「自ら願い、考えて行動するから、あとは神様どうかよろしく!」って願うのはいいみたい。
そういう意味では、人は常に謙虚であらねばならぬ、ということになる。そして、行動以外にできることは祈ることだけってことになる。確かにそうだな。ディスカバリーチャンネルのエドもよく祈っている。解釈はあっているのかもしれない。

人は約束を破る生き物だってことがすでにバレている?

これか!?確かに、破る前提で誓いなんかするなよってのはわかる。懺悔と罪のかたまりである人間は、なにかを誓えるほどの高貴な存在ではないのかもしれない。

約束をきちんと守るくらいでいいのかもね

大仰に、大層に、誓うとか言わなくても、日頃からキチンと約束を守る生き方をすれば、自ずと良い生き方になるのだろう。

ブルースリーの「考えるな、感じるんだ」みたいに、
「誓うな、約束を守るんだ」ってことでいいですかね?
今日はこの辺で終了。

今日も一日幸せに生きることができました。感謝。
明日も皆様が幸せでありますように。



(139回目のnote更新)

読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊